つつな会 平成25年度総会
日時:平成25年11月2日(土)
場所:第一樓(神戸市)
総会
恒例の総会が午後6時から住谷幸雄専務の司会で開かれた。澤田 隆君の開会の辞に続き、奥田 健会長は「古希をむかえる同窓生も多くなるが、気持ちは若い。2016年に京都で行われる全国大会に参加しましょう。また、当日つつな会の大会も開催し、京都の皆さんにご協力をお願いしたい」と挨拶があった。つつな会の中原君、谷田君のご母堂、奥田(明)君のご母堂、上田君のご母堂、福辻君のご母堂、當山君のご母堂に対して冥福を祈り黙祷を捧げた。議長に船越禮征君が選出され、議事録署名人に小林秀夫君、藤本泰雄君が指名された。
報告事項
会務報告は住谷幸雄専務理事、庶務報告は竹安克彦常務理事、会計報告は緒方 幸常務理事からあり、了承された。議事にはいり、第1号議案(平成16年度~平成24年度会計収支決算)、第2号議案(事業計画)、第3号議案(役員選出)は原案どおり満場一致で承認された。奥田会長の続投が決まり、役員人選は会長に一任される。協議事項(年会費の件) 弔慰金、会員家族弔慰、事業などは実行できることから平成24年度会費徴収をもって最終にするので、平成25年度会費徴収分は返金となる。この件は第4号議案として上程され、可決承認された。長谷川 勲君の開会の辞で締めくくった。
懇親会
奥田 健会長挨拶に続き、新門正昭君による乾杯の発声で開宴、和やかな雰囲気で旧交を温めた。最後に矢富義昭君のエールと学歌斉唱に参加者27名は意気揚々と散会することができた。
(親里嘉健 記)
戸代原安生君を偲ぶ
御子息より計報を告げられ、ついに帰らぬ人となられたかと残念でなりません。君とはあすなろ会 (17回卒石川県人会)を創り楽しく付き合わせていただきました。能登、金沢、加賀と小旅行、食事会等々思い出が尽きませ
ん。近年は車椅子での参加でしたが、いつも笑顔で出席してくれました。会合にはいつもスポーツ新聞を脇にかかえての出で立ちでした。君は熱烈な巨人軍、ジャイアンツのファンでした。こと巨人軍に関しては知らない事はなしの君でしたね。対して義弟の倉賢一君はそれにも増して、阪神タイガースファンでした。二人のバトルを聞くのが試合の内容、勝負より興味があり楽しませてくれました。多くを語らない穏やかで温厚な人柄でありましたが、いざ巨人・阪神戦になると一歩も譲らず失笑したものでした。楽しく語り合う事が出来なくなったかと思うと寂しくてなりません。人工透析と同居を強いられ、入退院を繰り返す長期間の闘病生活でした。よく頑張ったと思う。又、献身的な奥様、又娘さん達の看病、その姿が目に焼き付いています。その点、君は幸せだったと思う。そして御子息、淳志君が立派に医院を継承されています。安生君、どうぞゆっくりお休み下さい。
御冥福を心よりお祈り申し上げます。
(土田勝雄 記)
西田堯吉君を悼む

同窓会の役員の方から、古希を迎えたばかりの11月7日に死去した大阪歯科大学17回生の西田堯吉君の追悼文を書くように依頼されて、果たして私のような者でいいのか、もっと適任者がいるのではないかという戸惑は隠せ
なかった。同じ時代を、同じ青春をともに生きたもののつながりというものは、いつまでたっても一種独特の味わいを持ち続けるものだ。人生の同志・戦友に先立たれた者としての喪失感と心の痛みは消え去ることはないであろう。西田君は昭和38年大阪歯科大学に入学し、昭和44年卒業と同時に、大阪歯科大学歯科理工学の川原春幸教授の門を叩き、苦節10年勉学に研究にと研鑽を積み、昭和54年に退職する。その後先年まで非常勤講師として後進の指導に当たってきた。大学を辞すると同時に、自宅近くの東大阪市JR鴻池新田の駅前で「西田歯科医院」を開設し、地域医療に情熱を傾けて今日に至っていた。私と西田君とは学生時代は席次がかなり離れていたのでほとんど接点はなかったが、西田君が大学を退職した頃、理工学教室時代の同僚の今西君など、川原教授ゆかりの人たちや後輩など10名で、「FSG」という名前のスタディグループを立ち上げてからだった。会の名称は「月始めの最初の土曜日の午後」からという意味で、初めの頃は講師を呼んだり、それぞれが順番に発表したり
して、真面目に勉強していたつもりだった。そのうち次第に研究・研鑽の熱意も薄れ、集まっては世間話や戯言で時間をつぶすようになり、やがて日暮れとともに夜の街へと繰り出しては夜遅くまで飲み歩いたものだった。そんな時、天性の明るさと闊達さを備えた座談の名手、親分肌の西田君の周囲はいつも明るい笑顔と華やかさに溢れていた。西田君ゆかりの人たちのなかでいつの間にかリーダー的な存在として誰からも頼りにされる、天衣無縫な個性を持った希有な存在だった。家庭的にも魅力的な夫人と2人のお嬢様に恵まれ、後継者もでき、温かい理想的な家庭を築きあげて、西田家の周りにはいつも幸福感があふれているように見えた。しかし、平成15年3月突然の不幸に見舞われる。最愛の夫人が急逝される。晴天の霹靂というか、あんなにお元気だったのに、まさかと絶句、信じられないことだった。性格的に気丈な西田君は少し気落ちしたところがあったが、強がったような素振りを見せてはいたが、明るい表情の陰に寂しそうな雰囲気を覗かせる時があった。無聊を持て余してか、次第に酒量が増えだして、夜遅くに酪 しては親しい友人たちに電話をしてくることがあった。そんな西田君の健康を心配して友人たちは酒量を控えるよう、健康管理に気をつけるように諭したのだったが、それも無駄になってしまった。7月19日に倒れ、長い闘病生活の末11月7日帰らぬ人となった。今はただ安らかな眠りと心からの冥福を祈るしかない。合掌!
(磯村寿賀人記)
大東道治君、やすらかに!!

大東君、君は本当に頑張ったネ。あれは三年前、小児歯科教授を退任し、つつな会としても、君の退任祝賀会を計画していました。会場はウェスティンホテル大阪、君への記念品は松田 弘君が製作した木彫作品を送ることになっていました。竹安君や私の息子達、二世会の先生方も招待する予定でした。ところが君が癌に侵され入院していることを、その時初めて知りました。当然、会を延期しようと連絡すると、君はせっかく準備してくれたんだから絶対出席するといい、当日は入院先の近大病院を抜け出し息子さんの車で会場へやって来ました。目を疑いました。100kg程あって貫録充分だった君の身体は半分の50kgにやせ衰え、手足は抗癌剤の影響で痔れて、歩くのも松葉杖、手は手袋をしないと物を握れない痛々しい状態でした。よく来たなあと、君の真面目な律義
さに胸が熱くなりました。せっかくの故宮の中華料理もスープしか飲めず、でも君は笑顔をたやさず気丈に振る舞っていましたが余命3ヶ月と聞き、その時我々に最期に会いに来たのかもしれないと思いました。
それから3ヶ月経って、君の様子を聞きたくて電話すると、「退院して家に居る。まだ生きてるで…」と。おまけに「ゴルフに行きたい」というではないか!! 奇跡が起こったと、驚きと嬉しさでいっぱいでした。さっそく梁川君と堀内君を誘い、君のホームコースのディアパークゴルフクラブでプレーをしました。でも長い闘病生活で体力を奪われていたので、カートに乗ったままで時々ティーショットを打つだけでした。カートから我々3人のプレーを見守り、ニコニコしている姿は本当に楽しそうでした。ゴルフの後、食事に行き二次会のカラオケも付き合ってくれました。得意の演歌「ダンジリ」や「兄弟船」を元気で歌う姿を見て、ひょっとするとこれは我々より長生きするんじゃないかと思いました。その後、月1回は必ず集まってゴルフと食事会をしましたが、いろんな抗癌剤を試して病状は一進一退のようでした。今年に入って千葉君も我々の仲間に入ってくれました。9月は、抗癌剤で頭はツルツルだったけれど、食欲もあり、顔色もよく元気だったのに、10月31日は、竹安君も参加してくれたけれど、君からメールが来て「食べた物はすぐ戻すし、しんどいから今回は行けない」とのこと。そしてその夜、「今日は申し訳なかった。」と本当に蚊の鳴くような聞き取りにくい電話がありました。息が荒くしんどそうでした。それが君との最後の会話になってしまいました。そして11月11日、君は天国へ召されました。大東君、最愛の妻、佳代夫人とむこうでゆっくり休んで下さい。我々も近い将来、必ず君に会いに行くことになるから、もう少し待っててな!!合掌
(富岡成夫 記)