後藤光基君を偲んで

後藤光基君があまりにも、あっけない旅立ちだった。つい数日前までは極く普通に話していた。早速にお見舞いも出来ず心残りです。平成24年12月5日に光基君のご令息から訃報を知らされました。雄木に咲いた泰山木の花が散ってしまったように忽然と光基君がこの世を去ったのて本当に淋しいです。もう少し暖かくなったら再会し旧交を温める事を楽しみにしていた。彼は常に温顔で微笑をたたえながら話す言葉も忘れない。

最後には京都府立医科大学に入院し加療するようになり、本人も当病院を気に入っていたようです。これから長い間の病魔に耐えて元気になるものと信じていました。常に奥様とご長男と三姉妹の献身的な看病に常々大変感謝しておりました。

仕事の面は長男にゆずり、後はゆっくり過ごすつもりであったと思う。やりたい事が沢山あるので、年一回開催される大B会 久栄会でも自分の身体の事は語らず。今しばらくは是非とも元気でおれたいといっていました。

また彼は多くの趣味を持っていました。能面彫刻、スケッチ、切り絵、狂言、ロータリークラブ会員、橋本市教育委員長、カラオケ等。また能狂言の普及に力を入れ小学校に講演を度々行っていたそうです。また自ら狂言し、セリフを覚えるのが大変と常々に言っていたのを思い出します。食事の後で時々カラオケバーに行った時いつも「知床旅情」を熱唱したのは忘れない。また入院中に突然電話があり、今現在東京に居るとのこと。ホテルはいいし、食事も旨いし矢張り病院と違って本当に楽しいと大声で言っていたことも忘れない。

その日は奥様が文部大臣表彰を受ける為に上京し、それに出席できた事が一番楽しかった。前々から是非とも東京へ行くと言っていた。心残りは沢山あるけれど、いま一つ、能面彫刻と奥様の書との合同展をやりたいと言っていた。楽しみにしていたので残念であるけれど、出来れば合同展をやってほしいです。

彼との結ばれた友情は後生忘れる事はないでしょう。長い間お付き合い有り難うございました。
残されたご家族のご加護とともに安かにご冥福をお祈り申し上げます。

合掌

(小泉勝彦 記)

「櫻井眞行君の死を悼む」 
                                  牧野会一同

大歯大100周年記念大会の時、彼は癌治療の真っ只中で、体調が相当悪かったはずなのに、少しも動揺を見せず、しっかりとした態度で、同窓会副会長としての職務を遂行していた。開会宣言も堂々として見事であった。

牧野会一同が、彼を囲んで盃を交わしたのは、2012年6月16日が最後となったが、彼は闘病の辛さにも耐え、いつものように楽しそうによく喋り笑った。我々が集まって、話が弾むのは健康の事になると、彼はいつもこう言っていた。僕は定期的に検診を受け、健康を確認しているから安心なんだ。君達の最期は僕が見送ってあげるからね、など。その彼すら先に逝ってしまうとは、人生一寸先は闇、何が起こるか分からない。

事の顛末を追ってみた。ある日突然、血尿が出たので精査してもらったところ、進行前立腺がんですでに膀胱にもできており、全身に転移があるため手術は不可能とのことだった。あれほど体には気を付けて、検査をしていたのにと不信に思い主治医に聞いただけでなく、何とその医者に自分以下のドクターである司会会員が全くチェックしていなかったのである。彼の楽観と、とっても行き所のないその無念や思うべしである。その後、大学病院でホルモン療法を受けたが、やがて効果がなくなり、最後の切札、抗癌剤ドセタキセル療法が開始されたが、これも思うような効果が出ず、もう有効な治療手段が尽きたということで、緩和医療への切り替えを提案された。見放されたわけである。

わが国の大病院は、保険診療(標準的な治療)を行っており、保険外治療との併用は禁じされている。混合診療は違法行為になるため、担当医はあらゆる抗がん剤を決められたように使うしかなく、目の前の患者に自分勝手に医療を行なうことはできない。そこで標準治療で効果がなくなれば、医者の方が患者より先に諦めることになるのである。彼の治療も、国内で認められていなければ利用はドセタキセルだけであったが、海外で承認されているカバジタキセルとカルボホルモン剤のアビラテロン等が、ドセタキセルに抵抗性のがんにとても有望な実力があるとされていたのに、全く取り合ってもらえなかった。

その後、緩和医療のため、S病院へ転院したが、ここの扱いは酷いもので、特に厳しい病院であった。治療らしい治療は全く行なわれず、日々は過ぎていった。奥さんが恐る恐る体力の衰えを心配して、ひと口の水さえのどが食事が摂れないことや、漢方薬の力を借りたいと思って相談しても、当院は、もうやりようのない人を受け入れているので、治療が希望なら自分で行き先を探して、今日にでも出て行って下さいと突き放されたようである。

悔しい思いをし、途方に暮れた奥さんの涙が目に浮かぶ。こうして、思うような治療や介護も受けられず、受け入れ先を探しもぐね、多くの「がん難民」が生まれるのであろう。

無為な3ヶ月の入院の後、ようやくK総合病院の緩和病棟へ転院することができた。ここでは、よく気の付く訓練されたスタッフが明るく対応してくれ、前病院では一度もしてもらえなかった入浴もさせてもらい、気持ちの良い、ときには安らぎを得たようである。しかし、それも2、3日のことであった。やがて、吐血が始まり、意識がなくなり、2月8日早朝2時45分、臨終を迎え、彼は去った。

「生者必滅会者定離」世の習いとすると言え、才能ある人材を失った事は歯科の怨に耐えないが、今は唯、彼の魂の安らかなる事を祈るのみである。

合掌
牧野会メンバー
(故 櫻井眞行、目野 満、井上浩一、細田寛海、後藤光悦、磯貝貞彦)

脇 英彦君を偲んで

堺歯会からの訃報で驚いた。元気に診療をしていると思っていたのに。

彼とは永い付き合いで出身は市内阿倍野区王子町と私は、松虫通り。親共しも同じ班で、兄同士も大歯の同級生。高校ではクラスは違えど同じ府立阿倍野高校。開業は私の方が少し早くて昭和41年で、よく診療所に来ては横から話しかけて仕事の邪魔。車の運転が好きで私の新車に乗り込んできては『あんな、こないして走るねん』と開通し、たばかりの車の多い中央環状線をスイスイ(確か私の方が早く免許を取ったのに)。
彼は昭和43年に近くの新金岡団地で開業し、多くの患者さんが来て連日大忙しで地域の医療に貢献され、学生時代のテニスと開業してからのゴルフとなかなかのスポーツマンでした。ご子息も私の長男と同じ様な年格好で立派に後継者を育てられました。奥様を始めご家族のご健勝と彼のご冥福をお祈り致します。
合 掌

(篠田 修 記)

追伸

平成25年1月20日 大橋九昂君 愛知県
ご親族様でしめやかにご葬儀を終えられ謹んでご冥福をお祈り申し上げます。   
                         久栄会