登美栄会の皆様如何お過ごしでしょうか。平成25年度総会(10月26日、神戸ポートピアホテル)も近づいて参りました。今回の総会では、京都、大阪での総会でご意見を頂戴して参りました登美栄会の今後についての意見を取りまとめて議案として提出させて頂く予定にしております。大切な総会ですので是非ご出席下さい。

さて前回の本会報でご報告致しました後、原康昭君と岩佐忠彦君の2名の仲間を亡いました。誠に残念で心からご冥福をお祈りし追悼文を掲載致します。

(松田 毅 記)

原君追悼文

昨年末、原康昭君の訃報を聞き、すぐ思い出されたのは牧野にあった同君が卒業するまでお世話になった、昔の旧制高校の寮を彷彿とさせる雰囲気のある下宿屋(名前は失念して思い出されませんが)でした。

原君とは歯科大に入学してすぐに、吉田甫君と僕の3人がどういう訳か意気投合し、毎日のように、6畳か4畳半のガラス戸一枚で仕切られた彼の部屋(そこには机という物は無く万年床が敷かれ、殆ど掃除もした形跡がないといった状態でしたが)で寝泊りし、夜になればマージャンや宴会に明け暮れ、また夜の牧野界隈を闊歩し大いに青春を謳歌したものでした。
またその下宿には高校を卒業したばかりの僕たちにとっては、経験豊富な大先輩達が沢山おられ、夜を徹して、よく飲み、よく語り合うための懐かしい限りです。卒業後2、3年経ち久しぶりに原君に会った時にはすっかり学生時代とは変わり(お世話になった大学の講義や実習に真面目とは言えなかった僕たちでしたが)歯科医療に熱い情熱を傾けた話しに圧倒されました。
その後暫く交際が途絶えた時期がありましたが、たまたま同じゴルフ同好会で一緒になったのを機会に、ゴルフ旅行やコースへご一緒になって、親しくさせて頂きましたが、その折にはしばしば彼と学生時代には考えられないような政治的問題についてもディスカッションした事も良い思い出の一つです。
一度宝塚にある彼の宅にお邪魔しましたが、綺麗な奥様と二人の嬢様に囲まれ、清潔で整理整頓された部屋に案内され中学時代の部屋との落差に驚いたものでした。彼のような男も君も骨肉するのもそんなに遠い将来ではないと思いますが、その時にはまた牧野の下宿部屋を思い出し、大いに飲み大いに語り合いたいと思っています。楽しい良い思い出を有り難う!
合掌


(西村 正夫 記)

岩佐忠彦先生を偲んで

2月20日(水)夜8時45分、私の携帯電話が鳴った。何時もの様に発信者を見て見ると、岩佐君からだった。電話は掛かって来るが、携帯電話からの通話は無い。携帯電話のメールで気楽に会話をしようと、再三言ったけど結局メールは来なかった。このところ体調が優れず、短期間の入退院を繰り返していると聞いていた。病院での療養中に、携帯電話までにさせる様になったのかなと思いながら、電話を取る。しかし、一瞬何かしら胸騒ぎがした。やはり電話はご子息からだった。「お父さんが亡くなりました」一瞬我が耳を疑った。昨年の秋に2度ほどお見舞いに行き、頑張ろうと言うと「お前も忙しそうだから、体には充分気を付けとアカンで」と反対に励まされ、君も同じに頑張ろう、年が明けて、また来るからと別れたのが最後だった。

君とは大学の入学式の日に、教室で最初に言葉を交わしてからの付き合いだ。おっとりとして物静かなが、お酒が入ると突然に良く言い合ったものだ。友達の世話も良くして頂いた。学生時代は私が遠く広島なので、週末、連休と休みになると幾度となく草津の家にお邪魔させて頂いた。仲間が集まるのも草津の家、旅行も一緒、大学卒業後私は広島に、遠くに離れたが時々電話で「元気にしているか」と言って来た。最近は私が大阪に出向いて行けば仲間と会えるので、君が草津を出なければと云って、時に仲間の為に思って連絡を取って合い、集まる機会を作ってくれたのも君だった。3年前だったか随筆君が亡くなったりにも、入院時も含め、最後までお世話をしてくれた君だった。何時にもまして話を聞いていろいろと意見を云ってくれたのも君だった。

一昔も過ぎ、これからは時間を気にする事なく、ゆっくりと話をしながら、旧交を温める事が出来ると楽しみにしていたのに、叶わぬ事となりました。また、あちらの世界に行くのは少し早いのでは、残念です。君との思い出も多すぎて、私の頭の中は混乱し、ただただ寂しい思いでいっぱいです。我々仲間もそれなりに老いて行き、何れは君と一緒の世界に行く日が来ます。その時は、も気にする事なく、話をしましょう。所定にもよろしくお伝え下さい。

ご冥福を心よりお祈り致します。
合 掌


(水野良行 記)