登美栄会

昨年11月26日に全国同窓会会員大会にあわせてクラス会総会を開催し、その模様はすでにご報告をさせて頂いたとおりであります。それ以降、藤原宗君と速水順君と遠藤忠雄君の3名を失いました。ご冥福をお祈りし追悼文を掲載致します。

藤原 宗君を偲んで

平成22年3月10日、洲本の藤原宗君が亡くなった。1年前に白血病を発病し、令夫人朝子さん、ご息到さんの厚い看病にもかかわらず、ついに帰らぬ人となった。

彼と共に大歯の牧野学舎の門をくぐったのは半世紀前の昭和34年のことである。互いに青年歯科医を夢みて、胸いっぱいの希望を膨らませていたことが懐かしい。卒業後は彼は洲本市、小生は西宮市で開業医として出発し、兵庫登美栄会の一員としての友情を深めることになる。

藤原君は大歯創設者藤原市太郎氏のゆかりの家系でもある。学生時代はそんなことを一切口にせず、ただひたすらに勉学に励む真面目な学生であった。お酒は強くて微酔な飲み方、静かに言葉少なく飲むのが彼のスタイルであったように思う。趣味の一つにハンティングがあった。禁猟期の夏鹿は一般には口に入らないが、増えすぎる鹿対策に地元自治体から間引きを依頼され、我々がその恩恵に浴するわけである。その淡白な味は最高の食材であった。

洲本歯科医師会においては副会長職を8年、最近は昨年3月まで2年間会長職を歴任している。また、ロータリアンでもあった。

今年多くの登美栄会会員が年男年女の72歳の誕生日を祝ったことであろう。この節目の年に彼との別れがあったことは悲しい出来事だが、いずれ残った我々も天国に召されることになる。登美栄会諸兄よ、その折には満開の桜の下で共に美酒に酔いしれようではないか。さようなら藤原君。

(山口省三 記)

速水 順君を偲んで


桜の花はすっかり散り、街路樹の花水木が咲き始め、今、4月の京都は新緑の綺麗な季節となってきた。予定していた我々京都の登美栄会有志による A.A.D.会(アンチエージングデンティストの会)の懇親会が4月初めに行われていたはずだった。

昨年末、忘年会の予定は速水君の体調不良のため(肺ガンで某病院入院)延び延びになっていた。1月中頃、速水君の「もう少し暖かくなってから会おう」の言葉が今から思えば最後だった。
平成24年3月27日夜9時40分頃、速水君の奥様から電話があった。3月18日日曜日に脳梗塞で倒れ京大病院に入院、ICUで処置を受け、一般病室に戻っておられたとの由。A.A.D.会の出席を楽しみにされていたが、容態急変し、現在危険な状態に陥り、とても出席できないとのことだった。この時すでに人工呼吸器が付けられていたようだった。
その後、心配していたところ、4月3日午後2時過ぎ、奥様から電話があり、その日の午前10時49分息を引き取られたとの報せを受けた。4月4日通夜、4月5日告別式と慌ただしくこの世を後にされた。
思えば2年前、全国登美栄会の当番が京都になったとき、全てをとりしきっていた速水君の元気な姿が今も目に浮かぶ。
彼は敬虔なカトリック教徒で、クリスチャンネームは「ジョセフ」。シスコ速水医院である。同志社大学を卒業された彼は一旦社会人になられていた。その後歯科医師を目指し再び学生となりわれらが仲間となった。我々よりも世間を見る目は広かったと思う。
開業後は近隣諸外国に残されし、エンドのスペシャリストとして大学講師まで務められ、優秀で我々より一歩先んじた先生であった。ご夫妻は生前では奥様と大変仲が良く、1年に一回は海外旅行を楽しまれていた。その計画は全て奥さまがされていたそうだ。今度はどこへ旅行してきたのかと聞くと「全て家内が計画したので、どこへ行ったかわからない。色んなところへ行った」と答える彼が印象的だった。
開業後は常に江南的的考えを持って、よく近隣諸国に対する日本国の政治姿勢を憂いておられた。
彼は自己主張の強い人でおられたが、ボランティア精神に富み、恵まれない人たちに汚された鴨川のごみ拾いを早朝から黙々とされるなど、情に厚い優しい人であった。わずかなことでもできることではない。
二人の息子さんは立派な歯科医師となられ、ご長男は後を継がれ、ご次男はアメリカ留学後そのまま就職されシアトルで活躍されている。さらにお孫さんにも恵まれ、生命のバトンタッチを確実にされている。どうぞ、彼もまた次の世で楽しんでおられることだろう。
生を受けし以上はいつかは果てる。我々もいずれ行くから、その時はまたA.A.D.会をしよう。
合掌 平成24年4月


(古垣英男 記)