登美栄会

登美栄会の皆様、お元気でしょうか。次回の総会は兵庫の担当で平成25年10月26日(土)にポートピアホテルで開催することに決まりました。手帳にご記入下さり是非ご出席下さい。さて残念な事に前回の同窓会報に掲載以降、貴治孝光君、海老原武義君、関根一郎君の3名を失いました。ご冥福をお祈りし追悼文を掲載致します。

貴治孝光君を偲んで

「キーヤン」の愛称で皆から愛された貴治孝光君。5年前に舌癌を発症、舌の半分を切除。術後、順調に回復され、食事と会話に少し不自由さを感じながらも診療と技工を本年4月7日まで元気に続けてられましたが、翌日少し熱っぽいと感じ、単なる風邪かなと思っていたところ、熱が下がらず、主治医から、インフルエンザに感染しているとの診断で即日入院。その後、肺炎を併発し、薬石効なく、6月25日、愛するご家族に看取られながら、天国へと旅立たれました。

大阪歯科大学卒業後、昭和45年7月に開業され、以来41年間に亘り地域医療に一身を捧げ、貢献されました。
私達が敬愛、天満に通った(1960年代の初め)頃、日々勉学と研鑽の傍ら、アメリカから入ってくる文化の全てが格好良く、憧れの対象でした。当時「キーヤン」はリーゼントヘアースタイルで真白なYシャツにブルージーンズ、まるで映画の「ジェームス・ディーン」音楽の「プレスリー」を彷彿させるカッコ良い「アメリカン坊」と弟のように可愛がってくれました。

 彼は細やかな心配りで、やさしくて、強情っぱり、そして最高の照れ屋で寂しがりやでした。
開業後、診療の合間には大好きな「オートバイ」「ウィスキー」「ピースの箱入り」「カントリーミュージック」をこよなく愛され、ご家族を大切に、特にお父様には親孝行を尽されたと奥様からお聞き致しました。5年前からは、志を継ぎ歯科医師となられたご長男(鏑木郎さん)が付き添われ、国内外を問わず彼の行きたいところへ何度も旅をされたそうです。そして2年前には三世帯住宅を新築され、奥様の理想、そしてご長男夫婦、可愛いお孫さんと幸せあふれる日々を送っておられました。
 
数年前からは、私の心痛痛の「ライブコンサート」にご家族全員で来られ、演奏が始まると学生時代と変わらぬ「昭和のダンディー」な笑顔で大好きなカントリーを楽しんでいた「キーヤン」は、今も私の脳裏に焼きついています。しかし彼は今日もカウボーイハットをかぶり、胸のポケットにミラーとピッピッセとを、バーボンウィスキーにくわえタバコで固唾にきたがり、大空から私達を見守りながら駆け抜けていることでしょう。私達にたくさんの思いやりとウィットのきいたJoke、そして楽しいお話をありがとう。

私達は決して君のことを忘れません。心やすらかに。
ご冥福を心からお祈りいたします。

戒名 慈應院釈幸観
               合掌

(永露研一 記)

海老原 武義君 追悼文

彼は鹿児島県串木野(現在 いちき串木野)で誕生、その地を訪ねた時彼が食べさせてくれた薩摩揚げの美味しさが未だ忘れられない。土産物店での薩摩弁には別格の物でした。
 大学入学時は津曲という姓で、在学中救療奉仕団のメンバーとして大変活躍されて、台湾にハンセン病患者を見舞に行った時、ライオンズクラブの人達と一緒になったところで「国際奉仕を受け渡った」二度とあのような経験は出来ないと楽しそうに何度も話していました。
 昭和56年全国登美栄会会則が会員に承認され、正式に全国登美栄会が成立しました。その当時、海老原君は登美栄会では、あまり名前も知られておませんでしたが、平成2年頃から大阪登美栄会が担当で大学80周年を、平成3年6月1日に全国登美栄会を大阪ロイヤルホテルで開催する事が決まった頃から、成功させるために寝る間も惜しみ、それは凄いエネルギーで成功に向け全国に想を発じ活動をされました。
 結果、そのパワーに引き込まれるかの如く会員一同が、力を結集して大成功を収めたのは、皆さんの個別の事実です。ここで海老原すごいです。
 思えば、彼の津曲から海老原への改姓で、血の繋がりよりも人間としての繋がりを一番大事にし、そんな登美栄会の中にお強く求めたのかなと思います。
 あれほど社交的な彼が、平成14年頃から、突然張った糸がプツリと切れた様に、同窓会やゴルフその他趣味の社会的な付き合いに姿を見せ無くなりました。ある日彼に、「元気ないが何かあったの?」聞くと、彼はポツリと言いました「信頼していた高校の同窓生に社会的な傷を負わされた」と「私は『縁を切ってハッキリさせたら』」と言いましたが、彼は「高校生の時の親友だからとことん信じて付き合う、それしか僕には出来ない」と彼の性格を全て表している言葉でした。
我欲ではなく、みんな仲良く、信じたら最後までが、彼の信条でした。
 その後は人とも会わず、ひっそりと吉野で暮らしていましたが、言い訳もせず、黙々と生き死んでいきました。
 最後となるであろう全国登美栄会から又一人、確厚すことが居なくなりました。

                      合掌(後藤進 記)

関根一郎君を偲んで

残暑厳しい9月10日に「関根先生がお亡くなりになられたらしい」との知らせがあり、松田毅君に電話をしましたが彼も御存じなく、後程「葬儀は東京代々木斎場で既に会は済し」との連絡をいただきました。登美栄会会員一同突然の知らせにただ、ございません。心から御冥福をお祈り申し上げます。
 関根一郎君が朝日大学を退職された後2~3回お会いしましたが、非常に元気そうで今まで体調が悪いということも聞いておりませんでしたので非常に残念です。
 彼は卒業後、大歯大、岐阜歯大(朝日大)に勤務され退職となるまでの43年間、歯学部、歯学教育、研究、臨床及び学会活動に心血を注がれたことは皆様もご承知の通りであり、敬意を表さざるを得ません。
 また、彼は美術にも大変でもあり、趣味の囲碁は段を持っており、音楽、美術にも造詣が深く、余暇を見つけては絵筆を持ち腕は玄人はだしでした。ご引率で歯大が学会卒業式で同時のは、倉敷水行バ大原美術館エル・グレコの「受胎告知」を観覧した後その近所にあった喫茶店でギリシャ人のエル・グレコがスペイン美術の黄金時代の巨匠であることの話をしておられたこと、全く美術に関心がなかった私にとって強く印象に残っており、今でも忘れることができません。
 私の人生に少なからず影響を与えてくれた関根君に感謝して、写真入の「無罪の告知」を拝鑑し、彼を偲びたいと思っております。

                       合掌(藤田智記)