「森田耕造君の急逝の報に接して」

まだ彼がいなくなったとは、信じられません。『よおっ!』って現れそうで。彼との出会いは、クラスも違っていたので軟式テニス部でした。大学の6年間の青春時代を共に過ごした、私にはかけがえのない親友の一人です。彼はスマートで、都会人ぽくって、とても爽やかな好青年でした。自家用車を乗り回し、ゴルフやスキーなどいろんなスポーツを嗜み、私にとっては、趣味や人生に大きな影響を与えてくれた憧れの存在でした。6年間のテニス部では、前衛後衛とのペアとなって良く戦ったものです。卒後もしばらくは、先に開業した彼のオフィスを訪ねたり、美人の奥様を連れて松山に遊びに来てくれて、夫婦4人でゴルフをしたことは、今では一番楽しい思い出の一つです。しかし、その後は互いに忙しくなり、20数年間は年賀状のやり取りだけになってしまいましたが、遠くに離れていても、いつも身近に感じている心の友と思える存在でした。でも、しばらく会わないうちに次第に疎遠になっていたのかも知れません。その彼の病状を知らず、行き違いから告別式に参列できなかったことは、悔やまれてなりません。やっと四十九日の法要になって彼の遺影と対面できました。医師になられた御長男も歯科医師の御次男も、立派に育っておられますね。亡くなって改めて、私にとっての彼の存在の大きさを感じる今日この頃です。
森田くん! 『君の残りの人生の分も、大切に生きようと思います。安らかに眠ってください。』
あの Yesterday Once More を聴きながら・・・
(道田寿彦記)
「同じにおいが・・・」
昨年の9月、「横尾君と3人で会いたい」と森田君より連絡があった。「一昨年末から、倦怠感が続き腰の痛みもとれず検査をうけたところ、悪性リンパ腫との診断で半年間におよぶ抗がん剤治療で一時落ち着いていたが、検査の結果が芳しくなく骨髄移植を勧められている。」とのこと。一昨年は2月に南船場で、9月は祇園で会合があり元気に近況を話してくれていた。そして、半年後3月18日夕、天津君より計報。知り合って46年、彼との出会いを鈍感な私は殆ど覚えていない。私より1日早く生まれた彼は「同じにおいがするな」と感じたそうである。共通の遊び仲間を持ち合う機会も多く、今では何事も分かり合える友の一人となっていたのに・・・・
(岡本 和記)
「森田耕造君を偲んで」
3月18日夜、私は札幌行きの列車の中にいました。車中で岡本君からの電話に気付かず、翌朝森田君の計報を知ることになりました。彼との思い出を少し書きたいと思います。彼とは入学時から同じクラスで、彼の軟式テニ
スのペア(故真方鐵明君)が、牧野の私の下宿近くに住んでいたことなどから親しくなりました。下宿に集まっては、酒を飲んだり、麻雀したりとよく遊んだものです。卒業してからは、当時ブームだったスキーツアーに参加したり、「香里23人会」という仲間のメンバーに参加してからは岡山、松山、徳島、東京など各地を旅行し、ある時は新幹線で岡山から帰るとき、神戸で途中下車し、岡本君お勧めの店に立ち寄り、3人で美味しい中華料理を食べたこともありました。また、彼はかなりの勉強家でもあり、全国各地で講演を行い、札幌講演の時は、彼の素晴らしい症例発表に感心したことを覚えています。数年前になりますが、彼はこのようなことを話していました。「俺たち、ランディングゾーンに入ってきたよなあ。リタイアしたらカミさんと2人で長期クルーズに行くんだ。」と、奥様思いの話を聞かされました。今、私は彼に聞きたい。「おいおい森田君、勝手に1人だけのクルーズか?話が違うのでは?」そんな問いかけをしても、応えてくれる彼はもう居ません。昨年9月、私が宿泊していた大阪のホテルまで会いに来てくれました。今思えば、無理して来てくれたのだと思います。彼はお洒落な帽子を被り、なかなかイカしたオヤジでした。今でもその姿が目に浮かびます。それが、彼との最後になりました。俺たちが再会する時が必ずやって来るから、それまで待っていてくれよ。今は、ただただ彼の冥福を祈るしかありません。
合掌
(横尾秀幸記)
「心の友へ」
森田よ、お前とのことは語り尽くせぬ程多々あるが、何も語るまい。詩人、長田弘の詩を捧げよう。
「悲しみは、言葉を美しくしない。悲しいときは、黙って悲しむ。言葉にならないものが、いつも胸にある」
待っていろよ、すぐに行くから。
(天津了記)
忘れ得ぬ笑顔「神田昇平君を悼む」

棺を覗き込むと、胸元まで判衣を身につけた君は、「じゃあ、又なっ。」優しい言葉が返ってきそうだった。不思議と涙は出なかった。また一度見舞に行きたいと思っていたところに、清水康正君から「ちょっと悪いみたいやで、一度淡路に行こうや。」と言って見舞に行ったのが7月12日、いつものように多少足元は覚束ないけれど、元気な笑顔で私たちを迎えてくれた。顔色も良いし多少の心配はあったものの、元気な顔を見て安心して帰路についた。それから三週間後、突然の計報。一瞬耳を疑い唖然としたが、電話の向こうで話す康正君の声に現実に引き戻された。一昨年の9月に手術をして退院してきたときは、これでもう安心。後は少し治療に専念すれば順調に快復してゆくものと信じていた。七月に見舞に行くまで、術後に余命一年と宣告されていたなんて夢にも思っていなかった。体調の良い時には四国(西国) 三十三か所を巡って、「もう三周目。」なんて笑顔で言っていた君の
悔しさや苦しみを汲んであげられなかった事が今更ながら悲しい思いで一杯だ。振り返ってみれば、大学に入学して予科の一年の時、私の後ろの席がいつも空いていた。私も学生生活に少し慣れ、欠席がだんだん増えていく中で、私の後ろの席が昇平と知ったのは、もう夏も過ぎようとしていた頃だった。私は、いつもクールで紳士的な君を一つ年上の兄のように慕っていた。卒業してからも、集まりがある時はいつも君を捜して君の隣に座りに行った。別にそんなに会話をするでもなく、隣が私の席であるかのように。学食で「うどんはきざみ、噛まずに飲み込むもんや」と言う君。なじみの京都の喫茶店、ドライブ、麻雀、ゴルフ、淡路行きのフェリーの待合で初めて食べたカップラーメン、ベートーベンの第九をドイツ語のアカペラで歌った時の驚き、思い出はつきることはない。京都にいる時より淡路でいる時の方が生き生きしていた君、その淡路で開院したのも領けた。地元の人たちと麻雀したり船に乗ったり釣りをしたり、サイドカー付きのバイクで神戸に行ったり、自由に楽しく生活していた君が、警察歯科医会や歯科医師連盟で活躍するようになった時、人の為に色々お世話をすることが楽しく生きがいを感じるようになってきたと言っていたね。7月に訪問した時、鴨居の上にはたくさんの警察歯科医会と歯科医師連盟の感謝状や表彰状、君の真面目さや実直さに対するものだろう。座敷にはたくさんの素敵な帽子が置いてあった。「あれは?」と視線を座敷に向けると、「髪の毛が全部抜けてしまった時、ボルサリーノを気取って・・・」とお洒落な君は言っていた。最後までクールで紳士的な君。数年前、久しぶりに岡山で会った時、きみは箱型のポンポン船の様なかわいい船で来ていた。語り明かしたその翌日、夕日に反射する茶色の船橋が水平線のかなたに消えるまで、帰航するする君を康正君と二人でずっと見送っていた。今、その脳裏に焼き付いた光景で君を天国に見送っています。合掌
(川崎洋記)
林 勝彦君を偲んで

『林さん起きてください。目を覚ましてください。』枢に横たわっている彼は穏やかな笑顔で、まるで楽しい夢をみているようでした。9月28日(月曜日)朝8時過ぎに安藤茂君からの電話。胸騒ぎ。『林さんが明け方に死ん
だ。検査入院中に容態が急変したらしい。』言葉が出てこない。今年2月の初め同級生仲間6人が玉野市に集まり夜が更けるのも忘れ、大学時代のよもやま話に花を咲かせ、来年の再会を約束して別れた筈なのに。確か3週
間程前に『腰痛がひどく、階段の昇降がつらく診察出来ない。でも頑張っているよ。』『診察を受けて下さい』と頼んだら『解ったよ』と電話で元気な声を聞いたばかりなのに。林さんとは、牧野学舎で偶然隣り合わせの席になり、現役生が多い中、お互い浮いた存在で気が合ったのか話す機会が多く、下戸の僕を当時の洋酒喫茶やスナックに誘いだしては、岡山大学卒業後一流企業に就職していたのに、歯科医師の道へ進んだ理由等、色々話を聞かせて下さいました。学生時代の彼は、服は着たきりすずめ、大のビール党(大瓶1ダース位飲むことも多々) 両切りの缶ピース、公営ギャンブル (?) 通いが代名詞で、授業中は机にうつ伏せの毎日を過ごしていましたが、何故か再試を受けない不思議な人でした。何か相談事をしても『それは、おえりゃせんぞ』『そう。そ。そうじゃけん』と答えはどちらか。でも僕には頼りになるとても良い兄貴のような存在でした。卒業後は夫婦四人でゴルフにもよく行きました。三人の子供さんにも恵まれ順風満帆な生活を送られていました。13年位前に悪性リンパ腫を患い、壮絶な闘病生活を経て失いかけていた人生から奇跡的にカムバック。しかしこの頃から腰痛に見舞われ大好きなゴルフが出来ないとこぼされていました。最近はお孫さん達に囲まれた幸せな生活を送りながら、診察も頑張っておられ、ワインを嗜む充実した日々を過ごしておられました。9月29日お通夜、30日告別式と慌しく過ぎ去って行きました。“朝には紅顔ありて夕べには白骨となる”。計報を聞いてから、人の世の無常さ、夢さを思い知らされた3日間でした。
林さん安らかに眠ってください。
(田中義弘 記)