
庚申会の皆様御元気ですか? 毎年必ず開催される「庚申会」に足かけ三年ぶりに出席できたことを天に感謝しますと共に、その間休まずに開催に尽力してくださった役員の方々にこの場をお借りしてお礼申しあげます。又、その間の同窓会会報の寄稿を大塚俊裕君にお世話になりました。愚私が顔を見せなかったことで、多くの同窓生にご心配をおかけしましたこともこの紙面を借りまして、「本当に有難い」ことであると重ねて感謝いたします。この寄稿を通して何とか持ち直して前に一歩進み始めたいと思います。今年は35周年でもありました。昨年の10月8日午後6時より、佐古好正君のお世話で心斎橋の「愛蓮」を貸し切りで開催されました。長堀の駐車場から会場まで何度か横断歩道で立ち止まりましたが、殆ど「日本語」を聞き取ることが出来ないほど外国からの観光客が多いのには、テレビの報道で見聞きしていた感覚をはるかに上回るものがありました。
総会は大塚君の司会で始まり、世話人代表挨拶、有田憲司君の乾杯、角田淳君の会務報告の後、会員と家族への弔意と黙祷、米谷裕之君の学内報告と続きました。母校からご多忙の中を全国同窓会会長 生駒等先生、全国同窓会専務理事 恩田信雄先生、さらに大阪府同窓会専務理事 大塚俊裕君のご臨席を賜りました。
生駒会長から、「このままでは、若い卒業生の母校愛が薄れていく危機感と今後どうしたらよいか。」等々を力説して戴きました。又、「庚申会」の有様を評価していただいたことを心より感謝いたします。辻一起子さんが、今年より「紫媛会」の会長に就任されましたことは庚申会一同にとりましても大変喜ばしいことでありますので、お祝いと励ましとして花束を贈らせていただきました。卒後35年の同窓生が50名も集まると和気藹々として話は尽きません。一方当日出席したくても闘病に専念されている方、思い出をつくるために一秒を惜しんで在宅で頑張っている方、介護に明け暮れる方、急患のために病院に戻られた方等、いろいろな状況下で欠席を余儀なくされた方々も少なくありません。卒業以来大学は確かに様変わりしましたが私たちも又、個人個人様々な岐路にあるといっても過言ではありません。親から歯科を継承した方、創業した方、創業して廃業した方、大学や公的病院で活躍し、余生をどうするかを考え中の方、小坂広之君の様に35年間続けた歯科から離れて家業を継いだ方、奥田剛久君の様に卒業後すぐに歯科から離れて芸術分野で活躍中の方、卒業すぐに歯科を離れて家業を継いでいる方、結婚して歯科を離れた方等、様々であります。どのような生き方をしていても、それは「業」であって、ある「宿命」でもあると言っても過言ではありません。このことを了解せずに「損得」と「物の不足」することを不幸とか貧乏であると勘違いすることが往々にしておこります。人はかくも「欲」 深いものかと。
欲深く「富」と「名声」を得ようとしている間に時間が過ぎてゆき、人生を失う人のなんと多きことか。人の幸福とは、真の幸福とは何であるかと。どう生きたら、「生きたこと」 「生かされたこと」に値するのかと。そのようなことをこの頃、特に思うようになりました。若い頃から小説、哲学書、心理学等々、人生とはなにか? 人間とは何か?と問い続けてきました。どんな事をしてもこの「命題」がついてまわったと言っても言い過ぎでは無いと思います。同級生の「天折」に触れるとき、親を見送るとき、知人を見送るとき、・・・・・それでも、少しすると自分は「まだ大丈夫」と思っている方が殆どである。かといって人生の意味を考え、ある意味目標はあったとしても真の「人生の目的」を持って暮らされている方は少ないかも知れません。それは、必ず切れる燃料を積んで飛び立った飛行機が、目的地が決まっていないのに、機内で、機内食やDVDをみて楽しんでいるのに似ていると言えないだろうか?
庚申会の縁者は、こうあってはならない。与えられた「この人生」 自体はもう一度はない。私は予言者でも占い師でもないが、100%当てることが出来る一つのことを知っている。それは、必ず「死ぬ」ということである。だからこの「死」とは何かということの理解が今の日本で希薄となっていると思われるので、本当の意義のある「生き方」が少ないと感じられるのかもしれない。それは、大学に在校中に母校愛がはぐくまれないのであれば、今の同窓会が将来は危ないものとなると生駒会長がいわれているのと同じゆえんでは無かろうかと思われる。原因を探し当て原因療法をしないと、やがて意味の無いものとなるかも知れない。例えば一日24時間を一生として、今の年齢を3で割ったとしたら、今は何時頃であるかが出る。つまり所作としては、有限の中で生き
ている事を自覚をしながら好きや嫌いや損得を超えた「阿呆」になって、心は、「すべてを受け入れて水のように生きる」。活動は、「河の流れを受けてそれを抵抗として後々のことを目的として、のぼっていく魚のように生きる。」とでも言ったらいいのでしょうか。百三十七億年前に帰ったつもりで、私の今回の文章をよく吟味して欲しい。「太陽派の中心核では四つの水素が融合して一つのヘリウムを作るが、水素の質量の0.7%がエネルギーに転換して放出され、それによって太陽は輝いている。この放出量が0.71%だったら星の進化スピードが早すぎて、太陽はすでにない。0.69%だとスピードが遅くなり、ヘリウムが結合できず、137億年たっても炭素が作られず、生命は生まれていない」。「人間の持っている遺伝子情報は、一粒の米を六十億に分けたほどの極小スペースに、一ページ千文字で千ページある大百科事典三千二百冊分が入っている」。
この二つの事実かからして、何かとてつもない大きな意思が働いている。そうとしか思えない宇宙現象を解る時代に居合わせたことは「幸い」である。「生命という奇跡」を尊び、テロや戦争や殺人がなくなり「生けとし生けるものの命」が育まれ、無常なるものに執着せず、常なるものを求める世の中が地球上に来ることを願うばかりです。久し振りの寄稿は、辛口になったかも知れませんが、この次に伝えられるとは限らないので紙面を借りて、意義ある同窓会にすべく今回のメッセージを送ります。
(掬水聞香 乙未孟冬 永谷敏記)