第17回全国同窓会会員大会
大阪歯科大学創立100周年記念と銘打った大会は、平成23年11月26日(土)午前10時、大阪国際会議場メインホールで開催されました。
オープニングセレモニー、式典に引き続き行われた記念コンサートは、目下大人気の女性指揮者 西本智実さん(大阪市出身)のリードで、日本センチュリー交響楽団が素晴らしい演奏を展開致しました。アンコールにはソプラノ歌手の塩田美奈子さんが、「この道」「大阪歯科大学学歌」を熱唱し、出席者に大いなる共感と感銘を与えました。この二つの歌はいずれも北原白秋作詞、山田耕筰作曲なのであります。
午後1時からリーガロイヤルホテルで開催された懇親会は、さしもの「光琳の間」でも出席者で溢れんばかりの盛況振りでありました。これというのも今回の大会の登録者数は専門21回の三谷春保名誉教授(91歳)を筆頭に2,200名を超える状況であったからであります。
懇親会(祝宴)は午後3時頃閉会となりました。
おやしらず会総会
閉宴後、直ちに場所を「末広の間」に移し、平成23年度総会を午後3時30分から開催致しました(大8回の大会登録者は46名でした)。
司会の冨田基雄君の開会のことばに引き続き、クラス代表(古跡)の会務報告と進行したところに、来賓の三谷卓回会長、赤司範俊副会長の訪問を受け、早速ご挨拶を頂戴致しました。
例によって別室にて議長による議事進行で、野口勝弘君の会計報告、藤田弘監事の監査報告とたんたんと進んだのでありますが、慶弔規定について見解の相違で議論となりました。例年と異なり宴会がすぐには行われていたので一杯機嫌も加わり、このままではする場面もあって議長も収拾に難渋する次第であります。
案件はすべて次回への持ち越しであります。
閉会の辞で井上庄君が総弁をふるい、全員に推薦を勧めを及ぼうと呼び掛け、総会を閉じました。
物故者への追悼
平成23年の残りは僅かとなりましたが、これまでの物故者は先日事逝去(4月25日)、鈴木宏一(5月1日)、木田耕一(6月11日)の御三方であります。総会では全員で黙祷を捧げましたが、故人それぞれの「学生時代の思い出」が、羅尾徹信君、二宮浩治君から寄せられましたので原文のまま掲載致します。
矢田幸雄君の想い出
古跡君から矢田君の訃報を告げられ、ついに帰らぬ人となれれたかと残念に思います。
彼とは真偽のやり取りを続けていましたが、この2年程返切れていたので忘れかけて話したところ、頻堤植病で療養中と知り、本当に驚きました。
人と人との出会いは、往往に因縁というべきもので何とも不思議なものだと思います。いつ、どんなことから友達としてつき合ったかと考えてみても思い当たりません。敢えて言えば、何も気にせず、これといった理由もなく、何となく気が合ったことかと思います。私の下宿に一泊してもらい、私も彼の家に招待されて、あの明走な奈佐保野の観光を楽しみ、翌日はみさき公園、その他を案内してもらったことが遠い昔のことであるのに、ついこの前のことのように鮮明に思い出すことができます。
「矢田はん」(彼は私より年長なので、そう呼んでいた)は、心の純粋な、やさしくて誠実、そして物事にはとても慎重な性格の人でした。しかしながら、当時NHKの人気番組の「素人のど自慢」に出場するという人前へ面白持ち合わせていました。
人生は無常といいますが、こんな良い人が早く亡くなるとは残念というほかはありません。
「矢田はん」の冥福を心からお祈りします。
合掌
(羅尾徹信 記)
鈴木宏一君との出会いと別れ
牧野1年、牧方で2年、入学後4年目の春香里園へ移住。安田修君が同窓会副会長として配置した自由 進君と同じ香里園町のアパートで相互に進君を介して親しくなったのが鈴木宏一君との出会いである。
試験が迫ると神戸から通学していた彼と共に白神君の部屋で出題予想や教授をしながら楽しい学生時代を過ごしたことを思い出す。ある日の朝、香里園アパートでのこと、白神君の部屋にてレコードが大音響し爆発事故寸前だったこともあった。卒業も決まった春、日本橋医療器具店・服部場で白神、鈴木、安田、二宮の4人が声上げて笑う鈴木君の父親名義で下腹試割り事件を起こしたこともあった。面倒見が良く周囲に気配りをして優しいのだが、大きな体格から出るあの元気の大声で、歯に衣着せぬ語り、圧倒されていつもへこまされたのも卒業後し久しの地でゴルフや観光等、家族ぐるみの付き合いをしてきた。また、大阪で研修会等があるは気遣に泊めて頂きお世話になったものである。
21年3月下旬、故 白神君の近況を聴くため電話した際「俺、仕事やめて」の言葉に「医療でええやんか」と返す。このとき手術不能と告知された病だったことを知らされ愕然とした。この頃、白神君も手術後回復し、腹膜炎等で臥していたのであった。同神君の回復を待って鈴木君の自宅へ皆でお見舞いに、心配させまいと明るく振る舞っている宏一君に少し安堵したが…。皆が揃って飲みながら楽しく談笑できたのもこの時が最後となってしまった。
白神 進君が亡くなる一週間後、入退院を繰り返しながらの鈴木宏一君、右左田の安田 修君と共々徳島県へ彼から見聞等しに行ったのだが、1年後に彼の葬儀に出席することになろうとは、相次ぐ友の死去、あまりにも寂しい。奥様から大阪南堀江病院のポスレッドによったご遺族を頂きお見舞いに、所用で奥様は不在だったが、宏一君との最後の会話「俺、なんでこんなんなったんや、訳分かれへん。」前向な、病気になったらあかんと返す言葉をなく、小さくなってしまった姿に涙が止まらない。一週間後、平成23年5月1日奥様から死去の報に絶句した。
あの大きな声で「お前ら何やっとんねん、早よ来んかい」と、呼んでいると思うが、まだそらへは行けない。また違う時まで中細君と三人で気長に待っていて下さい。徳島、大阪、名古屋、愛
媛とメンバーが揃えばまたゴルフに行こう。さよ
うなら。合掌
永田耕一君を偲ぶ
鳥取県共通湖。この地を初めて訪れたのは永田耕一君との出会いがきっかけだった。
10月14日午後突然に、前クラス代表森谷先生から死亡の報を頂いた。昨年6月白神進君、今年5月鈴木宏一君、続いて永田耕一君、相次ぐ友の旅立ち、万感胸に迫る想い。
彼とは牧野、枚方と3年あまりを同じ下宿だった。静かに酒を飲み、多くを語らない懐深かで温厚な人柄、カメラが趣味だった。
予科2年の秋、永田君のカメラを借りて二人で紅葉が美しい吉野櫻堤奥へ撮影に行ったときのこと、無理な姿勢で構えたとき足を滑らせて淵へ転落、拝借したカメラはなんとしても濡らすことはできないと、両手を高く上げながら後に引き揚げてもらい、カメラは無事だったが全身ずぶ濡れで寒さに震えたことを思い出す。
夏休みの帰省途中、岡山より伯備線に乗り換え永田君の実家がある山陰本線武宜駅、駅前の中華そば屋で腹ごしらえ後の中山止、松江市宍道湖、出雲大社、名勝日御崎など山陰の名所旧跡を共に歩き楽しみ語り合い、米子駅前の出雲そばを食し、別れて帰省の途へついた。
卒業後永田君は阪急京都線山崎で歯科診療所開業。この歳藤所へ一度訪問したがお互い診療等で忙しく、思えばこの訪問以来直接接する機会がなかったことが悔やまれる。
鳥取へ帰省後、彼は出雲市で開業。以来年賀状のやり取りを続けながら今日までその年月を重ねていた。
定かでないが、8年位前のおる年の年賀状で脳梗塞を患い入院療養後やむなく現役を引退しなければならなくなったことを知った。
年賀状準備の季節が近づき近況や如何に、と心配していた矢先の訃報だった。安らかにお休み下さい。いつの日かそちらで再会し、今度はデジカメ持参で撮影に行きましょう。合掌
(二宮浩浩 記)
平成24年度総会について
平成24年には「おやしらず会」の多数が喜寿を迎えることとなります。したがって、総会、懇親会はできるだけ盛大にという声があり(これも酔った勢いかな)、日程、会場はクラス代表に一任ということになりました。
皆さんのふるさにてお会いしましょう。奮ってご参加下さい。(日程未定)
(古跡義之 頓 記)