葛城庸生君を偲ぶ

葛城君は、平成23年4月頃から「痩せてきた」と喜んでいたのですが、7月になって急に空腹時血糖が400を上まわり、精密検査の結果、膵臓癌と診断され入院。膵頭部にできた癌は手術できないものでして、癌に対する特効性のあるとされるあらゆる療法を行っていたようですが、薬効なく、残念ながら平成24年3月28日に天国に旅立ちました。
葛城君は友人から“カッツァン”と親しみを込め呼ばれており、ゴルフを楽しんでいました。腕前はたいしたものてシングルの手前までいき、1981年にはキャプテン杯のチャンピオンになる程でした。
私は下手で、いつも教えてもらっていました。今でもゴルフをしていると“カッツァン”の声が「もっとまっすぐ打て」と聞こえてきそうです。
また、水・土曜日の午後は皆にテニスを楽しんでいました。彼は勝負には厳しく、何事にも真剣に取り組んでいました。
人はかかしに生きることが大切であり、死は人生の未来ではなく生涯の完成である。故に死を喰く必要はないと言われています。
彼は勤勉で、上記の意味ではよく働き地域医療に貢献され、また三人の立派な子息を育てられました。昨年4月の三男の結婚式の時には、お酒をたくさん飲んで涙を流し「自分はもうこれで思い残すことはない」と言っていたのを思い出します。そして、素敵な奥様の愛子様に見守られて生涯を完遂されたと思います。
“カッツァン”は美しいものを捉える力を持ち、質の高いもの、物事を理解する優れた力の持ち主でも持っていました。その力を発表された者は受け継いでいきたいのです。なかかよく過ごした一片が忘れがたい思いとなるように、よく用いられた生は安らかな死を与える。君の一生はまさしくそのとおりだ。今この文に立ち戻く私は、君によってあるべき一生の姿を浮き上がらせて頂いた。だから君はまだ生きている。私たちの心の中に。私たちの一生は君の一生を続けるだろうし、君はこれからも私たちと共に行き続けるだろう。
長いお付き合い有難う。君の出会いを心の糧として、いつまでも決して忘れはしません。どうか天国よりいつまでも十二支会を見守って下さい。
葛城君、安らかにお休み下さい。
歯科医 三重構想衛生同門 合掌(尾上 肇 記)
前川邦宏君を偲ぶ

2000年に入って間もない頃でした。前川君からの電話で「俺なあ、下顎体部に悪性腫瘍があるみたいなんじゃ」と。
それから今日まで、君は実に辛抱強く病魔と闘ったよね。それでも複数の癌を抱えて、君は発病して十有余年。その間、立派に診療活動をこなし、亡くなる実際まで、仕事の心配をしていたという。その長期間、君は癌を押さえ込んできた。その進展を遅くさせたという事実は、ある意味、病魔に勝利したと言えるのではないでしょうか。
君は、六本木で開業する同級生の小野武彦君の紹介で東京医科歯科大学・口腔外科の専門医の元へ足を運び、術後も年2回きっちりと通いました。
また、大阪・梅田で開業するこれまた同級の黒川森夫君の弟さんにも世話になり、この方もしかっかりと通院してこれを克服したという。
君は若い頃、お酒を嗜み、そして晩年まで囲碁を楽しみ、1人、日らの精神力を磨いたように思われます。時には「囲碁の全国大会に出場されたかなりの成績をあげはった」と聞くところです。ここで言われた、慌てず常に冷静に物事を観察する力が長期の闘病生活を支えたのではないでしょうか。
昭和41年の秋の頃だったと思います。「前川さんという方が面会です」との案内がありました。出てみると君はなんとも言えない愛らしい美人を伴って矯正科の受付に立っているではないか。聞いてみると、今、新婚旅行の帰りだと言う。まだこれから島根まで帰るのに、大阪で途中下車をしてわざわざ会いに来てくれたとのこと。
また、昨年君は電話で「胸水が徐々に増えてくるので、これを抜かなといかんのじゃ。それでもこの増え方が段々早くなってのう」と訴えていたよね。
君が再び入院したと聞いたので、小野君と一緒に鳥取の病院へお見舞いに行こうかと計画したことがありました。しかしまさかこんなに早く君が逝ってしまうとは思わなかったので、結局実現しませんでした。後に奥様から「主人は大変会いたがっておりました」と聞きましたのでこれが悔やまれてなりません。
君は昨年の10月に一度入院しましたが、11月に再入院して今年2月2日に遂に帰らぬ人となってしまいました。奥様によりますと「最後は昏睡状態に陥り、特に苦しそうに逝ったのではありませんでしたので、想いの無い人でしただったですねと私の話は聴いてくれました。そんな人がもういないと思うと心から寂しいと思います」と夫婦の情愛を慈しむ奥様に守られていたのが大変印象的でした。
いずれ、僕も君の後を追いかけるから、君の横の席を取っておいてくれよな。
合掌
(高木 博 記)