橋本弘一君逝去の知らせに接して

近いうちにあの元気な橋本君と再会し旧交を温めることを楽しみにしていた矢先、彼と幽明界を異にするとは夢にも思わなかった。
彼は、学生時代の面影と愛称「ハッサン」と呼んでいた雰囲気が全くかわらない不思議な親友の一人であった。昭和22年大阪歯科大学予科に入学して間もなく、野球に興味をもった親友が相集まり、同好会として準硬式野球部が発足した。橋本君と一緒にボールを追った毎日が昨日のように想い出される。当時、彼は阪神六大学準硬式野球連盟の創設とスポーツニッポン新聞社の後援を取り付けるべく奔走していた。その当時からプレーヤー兼マネージャーとしてその手腕を遺憾なく発揮されていた。今日までの橋本先生の活躍は、「梅壇は双葉より芳しい」の言葉が最も似合っているかもしれない。大歯ー明海ー朝日の三歯科大学硬式野球定期戦も当時の小西浩三部長(大歯)、橋本弘一部長(明海)の協力により実現し、今日まで伝統行事として続いている。彼は人当たりがよく、和を大切に、人の意見を尊重し、いつの間にか大きく輪を拡げていく器量は、生粋の浪速っ子の名に相応しいお人柄だった。
橋本弘一先生の歯科材料学の分野においての活躍とその業績は、今さらながら述べるまでもないが、今日の我が国の歯科材料学の著しい発展のバックボーンに彼が果たした役割には著しいものがあるかと思っている。城西歯科大学、明海大学歯学部を通じての管理運営に当たっては、副学長、歯学部長、大学院歯学研究科長、教務部長、法人評議員など要職を歴任し、また社団法人日本私立大学協会の専務理事を長年にわたり担当されその重職を果たされたことは衆知のとおりである。大学を定年退職後は、「70にして心の欲する所に従えども、矩を踊えず」との孔子の言葉にあるように、悠々自適の毎日を過ごされていたと側聞していた。
「3年前に鼠径部粘液繊維肉腫がみつかり、手術後の経過もよく、またクラス会に出席することを楽しみにしていましたが、病変が急に悪化し6月23日薬効空しく帰らぬ人となりました」と後日奥様から病状経過についてお話があった。今はかけがえのない友に会えないと思うと涙が止まらない。
橋本弘一君、長い間のお付き合い有難う。君との出会いを心の中に宝として収め、いつまでも決して忘れないよ。安らかにお眠り下さい。合掌
(並河勇記)
10月22日、神戸ポートピアホテルでクラス会を開催しましたが、なんと18名の参加があり、久しぶりに高知から参加した氏の乾杯の音頭で楽しく盛り上がりました。現在、全員八十路を越え、クラス生存者が半数になりましたが、残存の半数者が元気です。今年は災害の年、雨量も未曾有です。屈指の多雨地帯の奈良県上北山村に住むI氏も、こんな烈しい長い雨は生まれて初めての体験で恐怖でしたと言われたほど。幸いご自宅は難を免れたそうですが、道路が破壊され大阪へ出掛けられるのにご苦労されています。諸兄姉のご自愛を祈念致します。
(木下祐宏、前田宗彦記)