無念惜別 榊 鉄也君
あいつを畏友と呼ぶべきか、母校に対する応援歌でもある
華の七期と謳われた私たち大学7回卒業生も歯科の各分野で活躍していた人達が亡くなり、引退し、私如きがこのような文章を綴ることはまことに烏滸がましく、残念な思いである。(昨日のことは今日は歴史、今日のことは明日は歴史。蘇峰)今、私達の母校大阪歯科大学は創学以来の危機に陥っている。簡単にはっきり云うならば国家試験の成績が下から数えて2番目と言う目を覆う様である。
原因は温度の低い人が程度の低い学生を教え、更に大学がそれを改善する為の人的物理的要素を欠き、チームとしての形態をなさず、歴史と云える長期間、積極的な対策はおろか、むしろ低下する方向へ舵をとっていたことである。ならば大学はその責任を取るべきであるが、外の我々には危機に対処する鳴動の音はまったく聞こえない。次期の学生は優秀と聞き期待は大であるが、教育陣は彼等を栄光に導き、我々の胸を撫で下ろさせてくれるのであろうか。浮沈の際に立つ、今この時である。
一年から六年間、大学に存在させておいて半分しか歯科医に育てられない欠陥大学になってしまった。更に学会における位置の低さは日本歯科医学会総会を開催するには創立100周年記念を上回る意欲の無さを露呈したいかと危ぶんでいた。幸いにして府歯の莫大なサポートおかげ成功裡に終わったことは祝うべきである。
このように歯数が不足な状態に浮遊する原因としても神君に対する我々同期の犠牲的支援がなかったことが原因でしている。彼は時決を発信するような男ではないが、その事態を聞いたとしても我々がどのような行動を起こせたかの疑問はあろう。私は学長選で14票を得たが、かしひし過半数に1票足らず次席票は2票、1票ご続いて後任である。これは不可思議な選挙で当学術学会誕生でなければならない、それが理事会で逆転し、投票者を軽視し組織への巧妙な導きと人事が行使されたことが重大なる裁判になった。なぜかだが介入する大事件であると裁判におこなったがたなかも沈静化し、大歯はその頃の常識が虐と封じた。浅しかに天満の病院と、研究室教育棟の構築と分析し、教授をはじめとする教員は臨床の場と研究の場を車で移動し貴重な大学の機能と時間を浪費しなければならなくなった。さらに存在価値不明、赤字絶大、不良学生の生す温泉プールの存在は私達の母校変を象徴させる。
診療体系に不安を感じさせる高層い病院玄関。ロビーにはなぜか喫茶店、西側の土地は買取りの誘いがあったにかかわらずOMM用パーキングである。
天満学舎は耐震性はまるかう巣の巣のような迷路な未明的な様相を呈している。
神君の大歯大構想は天満高層化で無駄のない教育、病院臨床、研究機関の集い結実で、臨床も研究も同じ場所で行い、学生との接触面積時間が大なれは次世代の指導陣に当然優秀な人材を選べ、大学が一丸となれる大きな利点がある。
今、府庁、大手前病院に連なる大学の用地に4階建ての貧しい100周年記念館と称するものが建ちつつある。あの時神君の構想で出来ていた構想が実現していれば、そこに20階以上の学舎がそびえ、大阪城を見下ろす展望ロビーを作り、世界の学会を誘致して我大阪歯科大学の存在を華々しく世界に知らしめられたであろうと過ぎ去った夢を見るのである。
神君と最初の接点はSFCであったが高津高校と言う自由な校風を経て来た私にははじめず、彼の続けたという言葉も聞かずに随同に尋ねした。卒業後は彼が生徒、私は保守と基礎と臨床に分かれ、私は3代目の開業医となった。彼は時如のようで不可解極まる引き継に落としこまれて、図書館の開館となおか構想の図書館は彼の懸命の努力があって全国一を誇る布施となった。彼は旧学舎図書館に僕ら、格調高く展示してくれて、私をどこかで認めてくれていたことに気付いた。80周年の記念誌、歯科医英、英文の論文集の表紙も私の作品を採用してくれた。他大学に比して先端を行くいけは常識的でないと思われる私の作品を認めてくれたと思わなかったが、まれにもち使われ見る度に自らの作品を肯定し、彼の眼識に敬意を感じずにいられない。
一定年後神君は金江に園舎囲を抱きロイヤルホテルで私の高度美術部の後輩で東大卒大木康教育大学教授の故松谷君の教室で制作していた。声量の関節で偶然彼の作品を見て切れ味のある彼の頭脳と相反して優しさを感じた。
昨年の夏の終わり、家族のみ旅行らは哀しらしい言葉に彼らしく、私はとでは皆を逝せないまま近づいてしまった。絶ち切った刀の鋭さを知る私は大歯の大きさと歴史の大きさを思う。
(額田晃作 記)