追悼文:田治米保夫君を悼む

旧友、田治米保夫君が去る10月29日未明静かに旅立ってしまった。かねてから厄介な肺炎と闘っていたことは知っていたが、9月に彼を自宅に見舞ったときの様子を思えば、こんなに早く逝くとは予想もしなかった。人生には先の見えない” よもや”という深い (もや)のなかに、“まさか”という坂があるが、彼の弔報を受け取ったき、この“よもや”と“まさか”が交錯して俄に信じ難かった。しかし有効な治療法がない病気だっただけに、一方では遂にその時が来たのかと、人生の冷徹な運命に抗えない人間の無力さに悔しい思いを隠せないでいた。
彼とは、大阪教育大学附属小学校、同中学校、大阪府立天王寺高校、大阪歯科大学と18年間共に学び、大学卒業後を含めば人生の大半を付き合った親友であったが、存在感のある親分肌の友人だった。大学卒業後はしばらく歯周病学教室に在籍し教育研究と臨床に従事していたが、その職を辞したあとは父親の診療所を引き継ぎ、その傍ら大学や同窓会の管理運営、さらには大阪府歯科医師会、日本歯科医師会の要職を歴任して、我が国の歯科医療行政に大きな足跡を残してきた。また彼は演劇や映画が好きで、大学に入るまでは歯科医ではなく役者になることを考えていたようだが、歯科医であった父親の後を継がなければならないためにそれを諦めざるを得なかったと、かつて悔しそうに述懐していたことを憶えている。“人生はドラマだ。”という彼の口癖は、そのような思いから生まれたのであろう。しかし、そのような立場にあっても、関西の若手俳優達を物心両面から支援するなど、細やかな気配りと暖かい心の持ち主であった。一方、彼の一途な性格はなにごとにおいても現状に満足することを許さず、常に改善・改革を目指す気概で燃えていたが、時代と場が彼に適応していれば、今よりもはるかに大きな、後世に残る仕事をやり遂げたのではないかと思う。人生には上り坂と下り坂がある。上り坂では、
自分自身のことや仕事のことで頭が一杯のため周りの景色が目に入らず、またそれはそれほど面白くない。時には嫌な思いや見たくもない景色に遭遇する。しかし下り坂になると、これまで見えなかった様々な景色が見えるようになる。とくに野心や雑念・煩悩が消え、平穏な心の生活に到る七十代からは、これまでの人生の成果と素晴らしさを十分に味わうことができる最も意義深い年齢になる。彼は人生の上り坂にあって、診療に従事しながら多大の自己犠牲を払い、懸命に歯科医療界に奉仕してきた。息子さん二人を立派な歯科医師に育て後顧の憂いはないとは言え、その奉仕の成果や子供たちのこれからの活躍を楽しむまえに逝ってしまった。自らが演出し、主役を務めた人生というドラマのなかの大団円を、最後まで見ることができなかった。私はそのことが残念でならない。しかし「敦盛」が謡うように、人間五十年、下天の内をくらぶれば人生などまさに一瞬の夢幻の如きものであろう。まさに、天地は万物の逆旅、浮生は夢の若しだ。そしていずれは誰もが皆彼岸に向かうのであるから、そのときにはまた彼に会うことができる。それまでどうか安らかに待っていて下さいと、今はただ心から祈るばかりである。
合掌
(三谷 英夫記)
(東北大学名誉教授、元・東北大学副総長)