心の友・憲治君を亡くして

平成25年9月15日、大型の台風18号が近畿地方に接近する夜6時過ぎ、貴君の次女・良子さんから「父が危篤状態」と、電話が入る。とうとう貴君と言葉を交わす最後の機会を逸してしまったか、何故もっと早くにとの 愧の念にかられる。貴君が病魔と闘っているのは承知していて、会いに行きたいがとの問いに「来て欲
しい」との積極的な返答は無かった。それを良い事に、貴君とは携帯電話やメールでお互いの近況を知らせ合い激励し合ったが、声が苦しそうな時にはメールでの遣り取りになっていた。今年の春先には、電話が可能で、その時貴君は「年一回の恒例の福島行き」を楽しそうに話していた。「そんな身体で大丈夫なのか?」と聞いたら、迎えがあるから大丈夫だ、自分も皆も楽しみにしているからと言っていた。8月30日に久しぶりにメールをしたが、いつもは直ぐに応答があるのにいつまで経ってもメールは返って来なかった。何か起こっているのに違いない・・・。

貴君とは学生時代には殆ど交流は無かったが、二人が相前後して助教授になり私が平成元年に総合医局の幹事長になった時、貴君に副幹事長を引き受けて貰ったのが、親しく付き合うようになる切っ掛けだった。毎朝、貴君の部屋でコーヒーを飲みながら雑談をし、昼食も一緒のことが多かった。甲子園球場やPLの花火大会に招待して貰ったことは、懐かしい思い出だ。貴君の身辺に様々なことがあったが、最終的には求められた新天地の奥羽大学へ単身赴任して行った。奥羽大学で日本口腔組織培養研究会があった折に、貴君の住居を訪ねた私をあちこちの名所旧跡に案内してくれた時の貴君は、精神的に晴れ晴れと伸びやかにしているようであった。教えることが好きな貴君が新しい職場で学生達に思う存分自由に講義している様子を窺い知ることができ、我がことのように嬉しく思った。貴君には色々なことを教わり、また助けられたことが多くあった。その一つは、平成9年の楠葉への大学移転時に研究室の設計・レイアウトに貴君から有益な助言を貰ったことだ。これが無ければ今の研究室は実現していない。また、指導していた院生の実験研究データの統計分析を頼んだ時には快諾してくれて、見違えるような学位論文に仕上がったことだ。両方とも嬉しかった、感謝しているよ!だから、その時の記憶は今も鮮明に脳裏に焼き付いている。

そして今日9月18日、貴君との最後の別れの時、貴君の顔の様子から病魔との闘いが如何に苦しいものであったかを知った。貴君だったかと思う、「教授は孤独だ」と言ったのは。その孤独の立場にいる者を、貴君は残して逝くのか・・・?この道は誰もがいつかは通る道、そして道の向こうにどのような世界があるのかは誰も知らない。貴君は精魂込めて建てた自宅で、愛する家族の皆に見守られ、手を握り締められながら静かに息を引き取ったと聞いた。貴君は“波乱万丈の人生”を経験し、見事にそれを完遂した。
楠君、また向こうで会おう・・・。
合掌

(林宏行記)