十二支会卒後50周年記念総会、懇親会開催

標記総会、懇親会は平成26年7月26日(土)午後4時から「ヒルトン大阪」4階「金閣の間」で全国各地から56名の参加を得て開催された。総会は岡林真君の司会で始まり、黒川森夫会長が挨拶に立ち、「この50年間毎年同窓会を開催されて来たのは偏にこれまでの3会長のご尽力の賜物と感謝致します。これからも同窓諸兄のご健康
を祈念致します」と述べた。
中川舅君を議長に選出し、報告事項では植田勉君からの庶務報告につづき、慰霊黙祷は故田治米保夫君、故甘利光治君、故村中孝守君、故山崎忍君、故廣田幹雄君の御霊に黙祷した。会計報告が川本達雄君から、学内報告及び同窓会報告は高木博君からあり、協議事項では次年度開催地を兵庫県に決定した。今回、卒後50周年を記念して特別講演を企画し、講師に大阪大学名誉教授、淀川キリスト教病院理事長の柏木哲夫先生をお招きし、「ホスピスケアーの要素」と題して約1時間の有意義な講演があった。(講演要旨)ホスピスケアーは単に患者に対する「医学的ケアー」だけでなく、ホスピスケアーを告知された直後の「患者自身の心のケアー」、告知を知らされた「家族の心のケアー」、患者没後の「残された家族の心のケアー」等すべてを包括したケアーでなければならない。「親切なもてなしの心」をもって接して行かなければならない。記念撮影後、懇親会は岡林亘君の司会で始まり、黒川森夫会長の挨拶につづきご来賓の紹介があり、大阪歯科大学同窓会会長、大阪府同窓会会長・生駒等先生、大阪歯科大学同窓会專務理事・恩田信雄先生、大阪府歯科医師会会長・太田謙司先生が紹介された。ご来寶挨拶を生駒等先生、太田謙司先生から頂いたあと、黒川森夫会長から歴代十二支会会長の橋本猛伸元会長、大頭孝三前会長の両君にその功績に対して感謝状と記念品が贈られた。恩田信雄先生の乾杯の音頭で杯を高々とあげ一同の健康と幸せを祈念した。会食に入りフルコースの食事を楽しむなか、遠来の同窓生が紹介されそれぞれの近況を報告した。次年度開催地に決定した兵庫県十二支会会長の川口豊君から、来年も多数のご参加を期待する旨の挨拶があった。会は盛況のなか、午後9時に川本達雄君の閉会の辞で終了した。
(黒田延彦記)
大西喜一郎さんを偲ぶ

人を喜ばせ、笑ってもらうことが大好きだった人、多趣味、多芸を持ち合わせ、運動神経も抜群で、小躯ながら走りも早く、ボーリング、軟式野球、ゴルフなど何でもござれ常にその道の上位を占めていた。私の兄貴的存在だった大西喜一郎氏(通称オオニッサン)の突然の言卜報(2014年7月28日早朝)を間き深い悲しみを覚え、世の無常を痛感しました。ひとつ上の兄貴だったこと、同じ小学校だったことを知ったのは大歯に入学し同じ一年D組(クラス担任は英語の山本卓世先生)で机を並べて授業を受け、そして帰宅する時だった。帰路も同じで、近鉄南大阪線の恵我之荘が彼の駅で、私は始発駅あくの橋からは二つ手前の駅、高見の里だった。彼との青舂の強いつながりは何といっても「将棋」だった。将棋の大好きだった二人は二年のとき同好会だったのを意気投合して「将棋部」に昇格させ、長きよきライバルとなった。将棋板と駒を持って二人だけで周遊券で九州一周を十日間(宿泊はほとんど」R駅舎の板の長椅子)やりぬいたことで、なお一層友’l冑が深まったのである。大工の腕も職人はだしで、縁台将棋をやろうと本格的な床几(たたみ-畳分)を作り上げてしまったのには正直驚きました。しかしながら、その上での対局はもう実現しないと思うと空しく悲しいことです。
彼の「大阪歯科大学将棋部」への貢献度は、現役A級のプロ棋士高島一岐代八段(日本一の攻めで有名。後に九段)を部の師範として招贈したことであった。その甲斐あって部員の気力、槙力がぐっと上昇したのは言うまでもない。当時部長を務めていただいた数学の宮森康雄先生(大西さんの媒酌人)から「総合大学に混じって関西リーグA級二位は立派、見事じゃ」と賛辞を賜り、彼と部員一同が共に喜び合ったものだった。将棋部の合宿(毎年二回)も勿論一緒、夏のキャンプもアルバイトも一緒、青春の一ページが走馬燈のように浮かんでは消えて行く。彼は卒業後、天王寺ステーションの小室歯科診療所に勤務。四年半歯科医療を習得後、羽曳野市恵我之荘の自宅を改築、自信満々、意気揚々と開業、新進気鋭の若い先生ということで地元でも大評判の開業医として以降亡くなる直前まで現役で頑張っておられた。彼はちょっと頑固一徹なところがあったが、自分の意見を曲げず、思ったことはすぐ行動に移す有三実行の人であった。また、再々の病魔に対しても不屈の闘志で立ち向かった。四十歳台「耳I烏り」がしてかなわんと訴え、長年耳鼻科に通院すれど治らず、精密検査の結果左聴神経が脳内でミイラ状になっており、摘出手術の際術後感染症にも苛まれ大いに苦しむこととなった。後にクラス会の寝床でその経過について彼が熱弁をふるったことを覚えている。晩年は週三回の人工透析、その時も腹膜炎を併
発して大変だったらしい。それ以前はポータブル人工透析器を装着しながらゴルフをラウンド、同伴者は勿論、ギャラリー全員が驚樗のまなざしで見ていたに違いない。
最後にこれだけは書いておこう。詩吟教室で鍛えた三橋美智也の「古城」は天下一品だった。その美声ももう聞けなくて空しい。「浴室での安らかな最期(虚血性心不全)」と伸子奥さまからお間きし、唯一救われる気持ちになった。五十六年間の長い長いお付き合い本当にありがとう。私の青春はいつも貴兄と一緒でした。わがままな私の願いだけはよく聞いてくれましたね。そちらは時間はたっぷりあるはず、ごゆっくりマージャンの続きを楽しんで下さい。また会えるのはもう少し先になりそうです。ひとまずさようなら。
法名夏光院医徳日喜信士
(長島興亜記)
吉川義久先生を偲んで
去る9月18日突然言安先生よりヨッサンが亡くなったとの知らせに果然としました。7月に卒業50周年の同窓会が大阪で開かれ久し振りに出席した後、数人でお宅へお邪魔した時は元気でしたのに。翌日ご夫婦で天王寺駅まで送ってもらい、入院する予定の病室まで教わり今年一杯持つかなと言われ、冗談だろうと気にはしていなかった。8月には家族一同引きつれ高知までわざわざ来てくれて、観光もそこそこ昼飯を一緒にして女房の墓参りをして、それから大阪へ帰って行った。今思えば最後のお別れに来てくれたんだ。ヨッサンとは学生時代より何故か一緒にいたようだ。1年、2年の時はクラスは違っていたが、いつも我がクラスにいて何ら違和感を覚えなかっ
た。3年生からは下宿を一緒にしたり麻雀アルサロ等よく行った。ある時、タケとヨッサンと私でナイター(難波野球場)へ行った帰り3人の格好があまりにもひどいのでタクシーの乗車拒否にあい、やむなく佂ヶ崎の簡易宿泊所で靴を抱いて寝たこともある。
出身は奈良県の吉野で、春には花見、秋には松茸狩りとお世話になった事です。卒業後は家族でお付き合いしようと「阿保会」を結成。奈良のドリームランド、グアム島旅行や富士山登山などに行き、懐かしい思いで写真を見ているとその内の数人が故人となり、その中の一人になるとは!またある時は秋田へスキーに行こうと誘われ、飛行機、旅館、その他色々の手配をしてくれて毎年年末にはスキーに行って毎晩コタツで飲む酒の方が楽しみだった。その後、ヨツサンはご夫婦でテニスを始め、ウインブルドンを目指して練習をしていたそうです?私はゴルフで全英オープンを目指そうかなと趣味は違っていても年に何回かは会っていました。ある時ゴルフを夫婦でやりだし、いつか一緒にまわろうと思いながら同じコンペに参加し、組み合わせを見るといつも違っていてゴルフは数回しかご一緒していないのが非常に残念です。あの世にゴルフ塲があったらそちらで待っていて下さ
い。7月に会いに行き、8月に会いに来てくれて9月にお別れだなんて誰も信じられません。あまりにも想いが多すぎて、とりとめのない事ばかり書き申し訳ありません。残されたご家族の悲しみを計り知る事は出来ませんが心からお悔やみ申し上げます。“釈義深”本当にヨッサンらしい戒名です。
(西岡征二郎記)