登美栄会の皆様、如何お過ごしでしょうか。卒業後50周年記念総会の日程が内定致しました。平成27年10月31日(土)に大阪リーガロイヤルホテルで特段の事情が起きない限り、参加費を無料とし総会及び懇親会を開催する予定となりました。前回の総会で決定し、既にご報告致しておりますように、この総会終了をもって従来から続けてまいりました会則に則った登美栄会を解散することとなります。どうか健康にご留意されて是非ともご出席下さいますよう今からご予定下さい。詳しい案内は別途お知らせ致すこととなります。杼て本会報で前回ご報告致しました後、2名の仲間を亡くしてしまいました。6月に矢追雅浩君、7月に中野楠夫君がご逝去されました。慎んでご冥福をお祈りし追悼文を捧げます。
(松田毅記)
畏友 矢追雅浩君を偲んで

平成26年5月22日、矢追君の奥様より「主人が重傷の肝疾患のためもう終末期にあります。誰にも口外するなと主人は言いますが私の一存でお伝えします。」との電話。彼の意向も汲み年来の友人である薬師寺の山田法胤管長にのみ伝えました。6月1日に病床に訪れるとはや意識はなくその夜10時40分に逝去されました。思い返せば昭和34年大学に入学して間もない頃、偶然に近鉄奈良駅で彼に呼び止められそのまま一緒に旧友の薬師寺山田法胤君に会いに出かけたのが出会いでした。その後は彼も気に入って折に触れてはお寺に足を運びともに友情を培いました。專門課程に入り保存補綴の実習では、我が家の台所で彼をはじめ大学の先輩も呼び数人で眠い目
をこすりながら製作に励んだこともありました。彼と後藤進君と3人での北海道旅行、彼の車での箱根、東京、群馬の周遊と、楽しい学生生活を湿歌したのも良い思い出です。卒業後彼は口腔治療学教室の大学院に進まれ大
学院卒業後は後身の指導に当たられました。気さくで、学生の身になり、面倒見の良い先生と慕われていたと聞いています。昭和46年3月には、私の知り合いの大学数学教授令嬢の光子さんと結婚され翌年には長男充啓君が誕生されました。平成11年には臨床教授に就任、平成19年に退官され終日開業されましたが、天理高校野球部の応援に多くの時間を割いていたようです。昨年1月山田法胤管長のご子息の結婚式が彼とゆっくり酒を飲み交わし語り合う最後となりました。その後電話やり取りはあったのですが。奈良の天理の素封家の次男として生を享け、おおらかな性格でだれからも愛され、そして学問には真筆に向かい、人一倍家族を大事にされた矢追君。73歳での旅立ちはあまりにも早すぎます。これからまだまだ家族とのふれあいに多くの時を費やしたかったであろうと思います。知り合って55年、私の心にも大きな穴が開いた感じです。安らかにお眠りください。心からの哀悼の意を表します。
(岡田哲郎記)
中野楠夫君を偲んで
中野楠夫君が7月11日に天国に旅立たれました。昭和48年坪井康夫君より「北区登美栄会を作ろう」という発声があり中野君と知り合いになりました。中野君はODRG(スターディークラブ)に入会して、パンキーヒロソフィーP,M,S,テクニックによるモダンデンチストリーを勉強していると話していました。私も勉強したいと思い入会致しました。同時に同期生で作っている白亜会(スターディークラブ)にも紹介していただきました。中野君のおかげで多くの歯科医と知り合いになることが出来て感謝しています。私がODRGに入会して4年目の時でした。中野君がODRGのプレジデント(会長)選挙に突然立候補しました。私は反射的に壇上に駆け上がりアドリブで応援演説をしたのを今でも思い出します。中野執行部に入り中野君を1年間サポートしました。それから3年後に清歯塾(スターデイークラブ)が忙しくなり私は退会致しました。その後、自然に疎遠になりました。久しぶりに「還暦を迎えるので一度会って食事でもしませんか?」と彼から電話がかかって来ました。近況を話しながらこれから如何に対応していったら良いか?話し合うのだろうと思っていました。しかし「還暦を迎えるので引退する」との事でした。私は年賀状を出していましたが「年賀状は虚礼だから出さない」と彼は何時も云っていました。便りのないのは良い便り、元気に生活している事とばかり思っていました。今から思えば彼は60歳で引退したのは身体の調子がすぐれなかったのではないかと思われます。3年後脳伷塞になり、入院加療、リハビリと約10年間にわたり誰にも話さず、持ち前の強靱な精神力と根性で頑張っていたのかなと思います。どうもお疲れ様でした。これからは天国でゆっくりとお休み下さい。中野楠夫君のご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌
(吉田興二記)