寿歯会B組クラス会(そのⅠ)

前回神戸でのクラス会から早くも3年が経ち、月日の経つのが一層早く感じられるような年齢になったと実感する今日この頃である。今回は平成26年7月に母校附属病院14Fの『レストラン・プラザ14』で開催したところ12名が参集した。温泉やプールのお誘いもあったが皆が一様に「疲れが残る」という事で希望者が無かったのも頷けるような気もしました。出席者の中から石崎君のギター演奏や佐藤君のボーカルが有ったりで食事会は大いに盛り上がり、次に地上300m日本一の超高層ビルの阿倍野ハルカスに移動し天王寺の街の変貌に驚いたりし
て楽しい時間を過ごした。我がクラスも何時の間にか35名を数えるのみの在籍者となり「これから何回再会出来るやら」という事で早速次回は来年(平成27年)に北陸で開催の約束をし散会した。
(槇野明弘記)
寿歯会B組クラス会(そのⅡ)

『新幹線を利用して昼食だけ?』というような声もあり前回のクラス会開催から僅か数か月後の平成26年11月12~13日に今年二回目のクラス会を開催することになった。三々五々芦原温泉「つるや」に集合したのは十
名。平日の開催ではあったが現役組も休診までして出席してくれた。この間僅か数か月のあいだに黄泉への旅路を辿る者もあり、体調不良を訴える者、老々介謹にて自宅を離れられない者ありで、世の移るいの早さに驚くばかりである。健康で集う事の出来た同窓もそれぞれの歩んできた人生に思いを馳せることもあり、先に人生の
終止符を打った友への黙とうを捧げた後は夜がふけるのも忘れ話が尽きることはなかった。翌日、来年平成27年5月頃の再会を約し各自家路についたのでした。
上田五男君をしのぶ
上田五男君は平成26年7月30日に天寿を全うした。72歳であった。大阪歯科大学入学以来、親友として、また畏友として長く付き合った私しか知らない上田君の一面を語らせていただく。大学3年生(1963年)の3月、天満橋学舎7階の廊下に3学年生理学期末テストの受験資格者リストが張り出された。240余名中、私と上田君だけが失格であった。すぐさま上田君と当時生理学助教授であられた覚道幸男先生の部屋を訪ね、1時間の出席不足を陳謝するとともに、もし受験を認めていただければ舂休みに生理学教室に出頭して試験管洗いの奉仕をさせていただくと懇願した。覚道先生は「まあ受けてみなさい、試験結果をみて君たちの及落を判定するから」、と寛大な応対をしてくださった。幸い二人とも合格点が取れて、進級させていただいた。舂休みの初日午前11時に地下解剖学実習室の前で上田君と待ち合わせた。一方的に覚道先生と約束した試験管洗いの奉仕を果たすためである。いくら待っても上田君は現われなかったので、仕方なく私ひとりで7階の生理学教室に出頭した。この試験管洗いがきっかけで、私は生理学教室とつながりができ、大学院での生理学専攻に至った。卜用君は当時衛生学教授の柳生嘉雄先生とのつながりで、大学院では口腔衛生学を専攻した。舂休みに生理学教室に通い始めて間もなく、当時講師の先生から「天野君、君の生埋学実習レポートは本当に君が言いたのか?」と尋ねられたので、私はとっさに自分で書いたと返答した。だが事実は、上田君と相談しながら書いたのであった。当時の生理学実習レポートの設問には、たとえば『血球数の算定』では、赤血球数算定値に対する確率誤差および標準偏差を算出し、さらに赤血球数算定値の推計学的信頼限界を信頼度99%および95%で求めさせるという、大学院初等レ
ベルの難問があった。かつて滋賀県立膳所高校(前身は膳所藩校)から京大工学部を目指していた上田君は私に、多数回赤血球数実測値がガウスの正規分布をすることから説き起こし、標本平均から母集団の平均値を99%および95%信頼度で推定するやり方を、図解を交えながら説明してくれた。まだ統計処理などやったことのなかった私は、彼の説明に聞きほれていた。我々が大学院を修了した1970年のわが国では、自民党の『1県1医大』政策に則って全国各地に雨後の竹の子のように医大が誕生し、その政策はすぐに歯大にも適用され、同年埼玉県坂戸市に城西歯科大学(現明海大学歯学部)が開設された。
1972年4月上田君は同大学口腔衛生学講座の講師に就任した。1986年2月東日本学園大学(現北海道医療大学)は上田君を歯学部口腔衛生学講座の教授に招膳したが、悲劇は2000年舂に起こった。国試問題漏洩事件である。2001年正月上田君は逮捕され、逮捕を受けて大学は懲戒処分を発表したので、上田君は退職金なしに退職した。同歯学部3年生であったお嬢様も余儀なく退学した。この事件が最初にテレビ放送された時、顔なじみの大阪歯科大学の某教授も映っていたが、結局奥羽大学、日本歯科大学、東日本学園大学の、3大学のそれぞれ口腔衛生学教授が逮捕起訴された。「指示どおりにA教授からB教授にFAXを回しただけなのに」と、上田君は事件への連坐をくやしがっていた。2001年3月上田君の公判は開始され、最高裁まで争ったが2003年9月に結審した。懲役10か月、執行猶予3年であったがʻさらに歯科医業停止5年が加わった。石川県で開業する、上田君の親友で自称悪友の牧野弘嗣は当時、「医道審議会かなにか知らんが、刑事処分の後追いでウーさんの息の根をとめる歯科医業停止の処分はあんまりだ!」と憤慨していた。裁判が終わり無職の時を経て2008年4月上田君は心ある大歯先輩、岸幹二先生の姫路歯科衛生專門学校で非常勤講師を開始した。この時代、彼は経済的に相当困窮していたであろうが、時折クラス会で顔を合わせても、いつもの穏やかな笑顔のウーさんであった。裁判後も彼と親交のあった歯科医薬品メーカー常務取締役のN氏は、2014年7月末にガン死するまで上田先生は経済的に、精神的に苦しい日々を過ご、しておられたと証三している。お人好しで、社交ベタで、緊張すると手のふるえる上田君は、人間を相手にする医業には向いていなかった。県立膳所高校を卒業して、1,2年の浪人をしてでも京大工学部に進んでおれば、彼の人生はもっと輝かしいものに展開していたであろうと悔やまれる。
(天野仁一朗記)
村岡魏(タカシ)君を偲んで
9月19日午前8時過ぎ、携帯が入った。「主人が昨日亡くなりました。」と村岡夫人から訃報が告げられた。偶然にも2日前の17日に久しぶりに彼に電話した時。奥様がでられ、主人は体調がすぐれず休んでいますが、横にいますので話してくださいとつないで頂いた。彼の声は以前と違い弱々しく、はっきりとせず 二言三言の会話であったが、これが最後の会話となった。昭和35年の舂、白亜の学塔に共に入学した。同組となり、お互い学生服姿で、狭くて古い木造の教室で机を並べ、授業は午後三時には終わり、暇と時間のある私達は、君の下宿に集まり歓談した。麻雀のルールも知らない四人で、当時初めて発売されたインスタントラーメンを一つの丼茶碗で
すすりながら、徹夜でゲームを楽しみ、その後も何度か卓を囲んだ。その時のメンバーは京都の岩田明君今は亡き京都の山村弘君と私の四人、この交友は卒後も続いた。君は枚方で開業医の道を進み、地域の歯科医療に尽くされ、その間もスポーツ万能の君はボーリング、にゴルフに腕を上げ、特にゴルフは木津川CCのクラブチャンピオン戦にも出場した。その君を中心に、このメンバーで月に一度のゴ、ルフを楽しんだ。君と山村君、岩田君と私がチームとなり対戦し、当然、成績は君達のチームが勝利して、そのチョコレートで幾度と食三会をした。
またアルトサックス奏者として活躍された山村君の軽音楽の発表会には、毎年三人共出席し、楽しい雰囲気に酔うていた。青春時代の真ん中から歯科医になり、社会人となってからもお互い何かと多忙にもかかわらずこの交友は続き、これは1回生の春君とのどちらからともなく始まった交友がスタートだった。魏君、数々の楽しい人生の想い出を与えてくれて、誠に有難とう。今頃は一足先に旅立った山村君とゴルフ、音楽に会話が弾んでいる事だろう。ご子息も君の教えに従って、歯科医業の道を歩んでおられると間いております。魏君、いづれ私もそちらに参ります。その節には今迄と同様、宜しくご誘導をお願いします。
(植西輝夫記)
他にも旅立たれた小笠原秀弥先生及川紘子先生のご冥福を祈念いたします。尚、原稿が届き次第次号に掲載させて戴きます。(幹事)