学院葬で田中義弘君を送る

同級生も献花

前兵庫歯科学院校長田中義弘君の学院葬が兵庫県病院歯科医会、神戸市立医療センター中央市民病院歯科同門会、大阪歯科大学歯科放射線学講座同門会の共催で11月22日(土)午後3時から兵庫県歯科医師会館で行われた。式では木原卓司君が歯科放射線学講座同門会を代表して弔辞を読み上げた。県内外から同級生16名も献花をし別れを惜しんだ。

親友、田中義弘君の計報がもたらされたのは2014年10月1日午後9時30分頃だった。彼の奥様、惠美子さんからの電話「もしもし、田中です…。今日、15時13分、主人が亡くなりました」低く落ち着いた声音。受話器を持つ手が震え、鼓動が高鳴り、喉が乾き引きつって一瞬声が出ない。最初に何と返答したのか、いまだに思い出せないほどの衝撃だった。明朝、故郷の吉野へ連れ帰り、ご家族と近親者で密葬するとの事を知って、今夜しか彼に会うチャンスがないことに気づいたのは、浅はかにも一度電話を切ってからの事だった。再度電話で今夜これから訪問したい旨を伝え、芦屋のご自宅へ飛んでいったことは三うまでもない。「黄疸が出ていたので、顔色は少し悪いのですが…。」という奥様に案内された部屋には、彼が彼にふさわしく、診療時にいつも着用していた白
衣に身を包み、ネクタイを締めて静かにベッドに横たわっていた。ふっくらとした顔には安堵の表情が漂っているように見えて、「英道、よく来たな!」とでも言いたげに、少し開き気味の口元には笑みさえもが窺えた。
親友の死を目の当たりにして胸が痛み、何と言っていいか分らない。彼の歯科治療を引き受けていた立塲から、もう私の役目は終わったのかと問いかけようとしたら涙が噴出した。親友の死がこれほど応えるとは思わなかった。振り返れば彼とは大坂歯科大学に入学して席を隣にしたときから、およそ50年の長きに渡って親友で居てくれた事に、改めて感謝の念を禁じえない。卒業後はそれぞれ歩んだ道は違ったが、彼が神戸市立中央市民病院の歯科医長として1983年に赴任して来たのをきっかけに、また親しく付き合いが始まった。彼の専門医としてのアドバイスが、町医者としての私の臨床にどれだけ寄与したかわからない。また亡妻が末期の冑がんを発症して入院した時、わざわざ自宅まで来てくれて長時間にわたり相談に乗ってくれたことは、実にありがたかった。

歯科部長となって更に責任が増した彼の身体は、阪神淡路大震災の勃発で益々激務が続いた結果、以前から抱えていた肝炎が増悪した。そのような頃、常に歯科界のことを考えて行動していた彼が、奥様の前でふと洩らした一言「今、死ぬわけにはいかんのや…」主治医に生体肝移植のドナーになることを申し出るきっかけになったと述懐する彼女の話を間いて、眼前に横たわる義弘に「何とお前は幸せな奴だ!こんなに深い愛情に包まれていたんだなぁ」と心の中で語りかけていた。

1999年の薑れに彼から吉野の別宅に誘われた。2000年の日の出を熊野灘で一緒に見ようと言う提案だった。実家を取り壊した跡地に建てた別宅には、取り壊す前に移設したと思われる欄間などの思い出が随所に取り込まれていた。二人で自炊して夕食をとり夜半に出発。熊野灘で2000年の初日の出を拝むことが出来た。思えば二人だけのこんな旅は、学生時代にまだ米軍の施政権下にあった沖縄を、テントを担いで旅行したとき以来だった。思い出の西表島にまた一緒に行こうと誓い合ったのだったが…。生体肝移植手術をこの年の秋に控えて、何か期
すところがあったのか、どうして私を誘ってくれたのか、今となっては答えが返ってこない。それから14年、君は元気に神戸市立中央市民病院の歯科部長を2010年に退官し、兵庫歯科学院專門学校校長を勤めながら、歯科保健衛生業務の発展に寄与し続けて、歯科医師人生をわき目も振らず全力で駆け抜けた。その姿に強く感銘し深く尊敬の念を持つ。親友として長きに渡り付き合ってくれたことにも深く感謝する。と同時に、親友の一人に私を選んでくれたことを誇りに思う。

ありがとう、義弘! 合掌

(當山英道記)