クラス会・OB会だより

大11〜大20

平成28年度 大11 土会

士会のたより

士会の皆様如何お過ごしですか。今年は台風も多く、また夏の暑さがこたえました。体調を崩されている方はどうぞご自愛ください。なお洪水等で被害に逢われた方がおられましたら森本 (078-911-9460) までご一報ください。
4月の総会以後について報告いたします。まず、悲しいことですが、総会の折、大士会の会長として陣頭指揮していただいた島田勝弘君の死去です。あまりに早い、やはり病魔に勝てなかったかと小生、通夜に藤井寺の葬儀場にお参りし、お棺の島田君の穏やかなお顔を見、ごくろうさまでしたと声をかけさせていただきました。下記に無二の親友浦野隆行君の追悼文で在りし日の島田君を思い出してください。
なお、4月以降の亡くなられた同窓を記載します。

平成28年4月22日死去加藤 昭君
平成28年7月26日死去 島田 勝弘君
平成28年8月18日死去宮井 茂美君
ご冥福を祈念します。 (森本正孝 記)

親友 島田君とのおもいで

故 島田君

彼とは、大学予科から約50年のつきあいでした。親友田中哲也君、神坂真道君等、4人はいつも一緒に行動していました。特に、島田君とはよく学び、よく遊びの仲でした。国内での研修会にもよく参加しました。また、アメリカの研修会、ボストン大学、コロラド大学、南カルフォルニア大学、ルニア大学、カルフォルニア大学サンフランシスコ校等とほとんど歯周病、歯内療法の研修会でした。特に、ハワイ
のロウレンヌM山田先生、クラウンブリッジのドクターニシ先生にはよく教えていただきました。
一方遊びの方も大阪の北や南へと、特に、南のクラブやバーによく一緒に行きました。他の友達からお前は酒も飲めないのによく付き合うなあとよく言われました。これからさびしくなると思います。彼との思い出を大切に、彼の分も頑張ってゆこうと思っています。島田君、本当にたくさんの思い出をありがとう。
追補 大阪歯科大学空手道部創始者も島田君とでした。

平成28年9月1日
悪友、親友 浦野より

平成27年度 大11 士会

士会のみなさま、如何お過ごしでしょうか。平成25年11月に京士会のお世話で卒業後50周年を兼ね、士会総会並びに懇親会をホテルグランヴィア京都にて開催して早くも二年が経過し、喜寿を迎える年齢となりました。その後の経過を下記に報告いたします。

まず喜ばしいことは、平成26年4月の叙勲では藤田忠司先生、堀口外茂雄先生が永年の学校歯科医としての功労により瑞宝双光章を、平成27年5月の叙勲では、福岡歯科大名誉教授羽生哲也氏が教育研究の功労により瑞宝小綬章をそれぞれ受賞されました。誠におめでとうございます。同窓生にとりこれほど喜ばしいことはありません。悲しいことは、奥原康久先生が平成25年12月31日に、薗實久男先生が平成26年4月10日に、藤田卓也先生が平成26年9月20日に逝去されました。謹んで哀悼の意を表すると共にご冥福をお祈りいたします。現在士会の会員は167名です。次回の士会の総会並びに懇親会は、大阪の当番で平成28年の開催を予定しております。だんだんと体調を崩される方が多くなってきましたが、元気なお姿が拝見し、一人でも多く参加され共に学生時代にかえりワイワイと語ろうではありませんか、期待しております。

(森本正孝記)

叙勲されました羽生哲也先生より丁重なるお礼状が届きましたので、ここに記載致します。
薫風の候皆様には益々ご清祥のこととお慶びもうしあげます。さて私こと平成27年春の叙勲に際し教育研究功労により瑞宝小綬草拝受の栄に浴しましたところ、早速ご懇篤なるご祝意を頂戴いたし誠にありがたく厚く御礼申し上げます。台風6号に追われるようにして福岡を発ちましたが、叙勲当日は見事な日本晴れの下、国立大劇場での伝達式ののち、皇居に参内して天皇陛下よりお言葉を賜り、一層感激を新たにいたしました。拝謁後に石橋の間に暫時待機のご案内があり、障子から漏れくる柔らかな光と影の中で、至福のひと時を過ごさせていただく幸運に恵まれ、改めて日本建築の素晴らしさに感激致しました。この度の叙勲は、皆様のご厚|冑、ご支援の賜物と深く感謝いたしております。今後とも従前にもましてご厚誼を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。

福岡歯科大学名誉教授 羽生哲也

平成18年度 大12 十二支会

平成29年度十二支会総会・懇親会は大阪で 一十二支会からのご案内一

拝啓 十二支会の皆様方にはお変わりなくお過ごしでしょうか。さて、昨年度は京滋十二支会の方々のお世話で「KKRホテルびわ湖」で30名参加のもと大変楽しい会にしていただきここに改めてお礼申し上げ
ます。有難うございました。今年は大阪が当番ということで昨年7月に数名の幹事共々大阪では評判の高い「KKRホテル大阪」へ下見に行って参りました。
昨年のKKRホテルびわ湖と同系列で、費用も手頃で、足場も良く、正面に大阪城が大きく展望できるということで出席者の総意により新緑の美しい5月中旬に決めさせていただきました。


○場所 「KKRホテル大阪」
大阪市中央区馬場町2-24
TEL06-6941-1122
○日時 平成29年5月14日(日)正午

なお、詳細は追ってご案内させていただきますが、どうぞ今からご予定いただきますようお願い申し上げます。前回の同窓会報「クラス会だより」の記事に誤植がございましたのでお詫び方々謹んで訂正させていただきます。
2016 (夏号) Vol.194の91ページ右欄下から4行目、故安藤晟君を、故安東晟君に訂正させていただきます。敬具


(黒川森夫記)

平成28年度 大12 十二支会

平成28年度大阪歯科大学十二支会総会・懇親会「KKRホテルびわこ」で開催

本年度の総会・懇親会は京滋十二支会の担当で平成28年6月19日(日) 正午から滋賀県大津市阪本の琵琶湖畔に建つ「KKRホテルびわ湖」 2階を会場にして各地から30名の参加のもとに開催された。通常“琵琶湖は一千万人の水瓶”とも称せられ、比良山系と美しい湖岸に囲まれているが、当日の湖畔の眺望は梅雨のさ中、前日より降り続く激しい雨で湖面は満水、湖上は雨で烟り、普段余り見られない湖国の風景でもあった。総会は、岡林真君の司会で始まり、黒川森夫会長の挨拶、次いで植田勉君から庶務報告があり、この一年間の物故者として故大野 八郎君、故飛田千鶴子さま、故牛田耕作君、故安藤晟君、故徳永恵子さま、更にご家族では橋本武君の故母堂さ
まらの御霊に慰霊黙祷を行った。なお、平成27年度十二支会収支決算報告は書面にて行われた。次に高木博君から学内報告が行われ総会は無事終了した。懇親会は午後1時から黒川森夫会長の挨拶に続いて尾上徹君の乾杯の音頭で始まった。宴たけなわの頃、地元大津市の松井成一君が滋賀県内の観光案内を兼ねて昭和49年(1974年)と昭和53年(1978年)の発掘調査で明らかになったことから667年から672年までの5年余り続いた天智天皇在位の大津京(大津宮)の史的変遷について分かりやすく説明があった。最近では滋賀県が湖国から湖都と表示されるようになってきている。最近、物故同窓が多くなってきたこと、あるいは我が身の先が見えてきたせいか、懇親会はできる限り旧クラス毎のテーブルとの要望にそい編成した結果、和気藹々の宴度となりました。その分お酒も進み、予算オーバーしたのではと懸念しております。
最後に京滋十二支会平野護君の閉会の辞で懇親会は終了、来年の十二支会は大阪が担当ということで再会を楽しみながら散会となった。

梅雨さ中琵琶湖の畔唐崎に 集える友ら酒注ぎ 乾せり

(人見権次郎記)

牛田耕作君を偲んで

昨年の大阪歯科大学愛知県支部の総会(平成27年11月15日)で、塚本勝彦君から牛田君の体調が良くないらしいと聞き、翌日電話して初めて入院している事を知りました。いつもにこやかで温厚な人柄で地域の方々から信頼され、評判の良い歯科医院として診療をされておられましたが、昨年の6月頃思いもよらなかった、肺腺癌と診断され名古屋医療センターへ入院されたそうです。彼はご両親を自宅で介護しながらの診療のため遠出の旅行も行かれず、子供さん達にはドライブや食事に連れて行くことと、歳をとってからのボケ防止にとピアノのレッスンやゴルフを楽しみにしていました。また、大のドラゴンズファンで監督になりきりテレビに向かって采配を振って、時には熱くなる場面もあったそうです。本当にお人好しで長男さんが東北大学歯学部を卒業され、同級生のお嬢様と結婚される時も名古屋に呼び戻さず、東京で開業することにも、悩みに悩んで賛同されました。息子さんは東京で開業され大変盛況で、頑張っておられます。奥様によりますと動物を愛し、童心の持ち主で大変家族思いの優しい主人で幸せでした。もう少し長生きしてもらいたかった。と語っておられました。
12月23日の告別式の時は、棺に納まっている姿に何度も「あなた、目をあけて」とお願いする姿に参列者からも、もらい泣きの声が聞こえてきました。
どうか残されたご家族のご加護を天国から見守って下さい。心より、ご冥福をお祈り致します。

(山中康男 記)

平成27年度 大12 十二支会

平成27年度十二支会総会、懇親会「みなと神戸」で開催

本年度の総会、懇親会は兵庫県十二支会の担当で平成27年5月24日(日)正午から「神戸ポートピアホテル29階・聚景園」を会場にして全国各地から38名の参加のもと開催された。今回は黒川森夫会長の発案で正午からの開催となった。総会は岡林眞君の司会で始まり、黒川森夫会長が挨拶に立ち、「昨年度には卒後50周年記念同窓会を開催できました。今後共、十二支会は毎年この催しを開催して行きたいと思います。これからも同窓各位のご協力とご健勝を祈念致します」と述べた。

平成27年度春の叙勲で旭日小授章を受けた橋本猛伸君に黒川森夫会長から祝辞と記念品が渡され、橋本猛伸君から謝辞が述べられた。報告事項、庶務報告、会計報告、学内報告等は書類で配布されて全て承認された。植田勉君からこの一年間の物故会員報告があり、故一瀬啓造君、故大西喜一郎君、故吉川義久君、故小島孝之君、故桑波田秀二君、故辻セキ子さん、加えて中川眞君のご母堂、黒川森夫君の奥様の御霊に慰霊黙祷を行った。協議では次年度開催地を京都府に決定した。今回、特別講演として、橋本猛伸君が6年間にわたる兵庫県公安委員同委員長職を辞されたのを機会に、「公安委員会」の活動内容や活動記録を詳細に紹介された。記念撮影後、懇親会は午後2時から中川眞君の司会で始まり、黒川森夫会長の挨拶につづき会食に入り、中華料理では珍しい
食材と内容でフルコースの食事を楽しんだ。次年度開催地に決定した京都川床での再会をお互いに約束して、盛況のうちに今回開催を担当した兵庫県十二支会会長・川口豐君から総括があり、最後に川本達雄君の閉会の辞で午後4時に終了した。

(黒田延彦記)

高島法男君の思い出

私が中学生だった昭和28(1953)年の事だ。高島君(大14)は当時、中共と呼ばれていた中国から帰国して私の中学校に転入して来た。今にち言うところの帰国子女で、当時そういう人は少なくなかった。朝礼で全校生徒に紹介されたその最初の時間に全校挙げての計算大会というのがあって、そこで編入したての高島少年はぶつちぎりの最優秀賞をとって皆んなの度肝を抜いた。その彼が終生の友となるとは、その時は予想もしなかつたのである。高校も一緒だった。父親が歯科医だとはその頃知った。大学も大歯で同じだった。中学校、高校では何と無く中国の生徒の感じが抜けなかったが、大学に入った時はもう普通の日本人になっていた。卒業してからも左京区の同じ支部だったから、付き合いはもう60年を超えていたことになる。その友を失ったのだから、ショックは大きい。先に述べたが、彼はたぐい稀な記憶力と計算力とを備えていた。将棋を指すと無論のこと私が負けたが、彼は棋譜の初めから終わりまでを再現して、私の敗因を指摘した。私なぞ2,3手前はもう忘れていたのだが。それでそれ以降は彼とは将棋をしたことが無い。日本では中学から英語を習い始めるが、中国ではロシアだったのだそうで、ロシア語が出来た。それで一緒にシベリアやモスクワ行ったのも好い思い出だ。でも本当に得意だったのは中国語で、これはネイティブだった。山を愛し、酒を愛し、交友を愛した良い人生だった。煙草も愛したが、これは拙かったようだ。仕事も頑張って歯科医師会の理事を勤めた事もある。二男二女に恵まれ、賑やかな家庭。医業は子息に任せて楽隠居の身分というところを病魔が襲った。喜寿の手前だったとはいえ、今日ではやはり短い人生だったと言わざるを得ない。返す返すも残念で涙が止まらない。これを書きながら今も心の
中で眩いている。友よ、暫くの別れだ、また会おう。喜寿も近くなると、本当にそんな心境になる。

(二司一郎記)

平成26年度 大12十二支会

十二支会卒後50周年記念総会、懇親会開催

標記総会、懇親会は平成26年7月26日(土)午後4時から「ヒルトン大阪」4階「金閣の間」で全国各地から56名の参加を得て開催された。総会は岡林真君の司会で始まり、黒川森夫会長が挨拶に立ち、「この50年間毎年同窓会を開催されて来たのは偏にこれまでの3会長のご尽力の賜物と感謝致します。これからも同窓諸兄のご健康
を祈念致します」と述べた。

中川舅君を議長に選出し、報告事項では植田勉君からの庶務報告につづき、慰霊黙祷は故田治米保夫君、故甘利光治君、故村中孝守君、故山崎忍君、故廣田幹雄君の御霊に黙祷した。会計報告が川本達雄君から、学内報告及び同窓会報告は高木博君からあり、協議事項では次年度開催地を兵庫県に決定した。今回、卒後50周年を記念して特別講演を企画し、講師に大阪大学名誉教授、淀川キリスト教病院理事長の柏木哲夫先生をお招きし、「ホスピスケアーの要素」と題して約1時間の有意義な講演があった。(講演要旨)ホスピスケアーは単に患者に対する「医学的ケアー」だけでなく、ホスピスケアーを告知された直後の「患者自身の心のケアー」、告知を知らされた「家族の心のケアー」、患者没後の「残された家族の心のケアー」等すべてを包括したケアーでなければならない。「親切なもてなしの心」をもって接して行かなければならない。記念撮影後、懇親会は岡林亘君の司会で始まり、黒川森夫会長の挨拶につづきご来賓の紹介があり、大阪歯科大学同窓会会長、大阪府同窓会会長・生駒等先生、大阪歯科大学同窓会專務理事・恩田信雄先生、大阪府歯科医師会会長・太田謙司先生が紹介された。ご来寶挨拶を生駒等先生、太田謙司先生から頂いたあと、黒川森夫会長から歴代十二支会会長の橋本猛伸元会長、大頭孝三前会長の両君にその功績に対して感謝状と記念品が贈られた。恩田信雄先生の乾杯の音頭で杯を高々とあげ一同の健康と幸せを祈念した。会食に入りフルコースの食事を楽しむなか、遠来の同窓生が紹介されそれぞれの近況を報告した。次年度開催地に決定した兵庫県十二支会会長の川口豊君から、来年も多数のご参加を期待する旨の挨拶があった。会は盛況のなか、午後9時に川本達雄君の閉会の辞で終了した。

(黒田延彦記)

大西喜一郎さんを偲ぶ

人を喜ばせ、笑ってもらうことが大好きだった人、多趣味、多芸を持ち合わせ、運動神経も抜群で、小躯ながら走りも早く、ボーリング、軟式野球、ゴルフなど何でもござれ常にその道の上位を占めていた。私の兄貴的存在だった大西喜一郎氏(通称オオニッサン)の突然の言卜報(2014年7月28日早朝)を間き深い悲しみを覚え、世の無常を痛感しました。ひとつ上の兄貴だったこと、同じ小学校だったことを知ったのは大歯に入学し同じ一年D組(クラス担任は英語の山本卓世先生)で机を並べて授業を受け、そして帰宅する時だった。帰路も同じで、近鉄南大阪線の恵我之荘が彼の駅で、私は始発駅あくの橋からは二つ手前の駅、高見の里だった。彼との青舂の強いつながりは何といっても「将棋」だった。将棋の大好きだった二人は二年のとき同好会だったのを意気投合して「将棋部」に昇格させ、長きよきライバルとなった。将棋板と駒を持って二人だけで周遊券で九州一周を十日間(宿泊はほとんど」R駅舎の板の長椅子)やりぬいたことで、なお一層友’l冑が深まったのである。大工の腕も職人はだしで、縁台将棋をやろうと本格的な床几(たたみ-畳分)を作り上げてしまったのには正直驚きました。しかしながら、その上での対局はもう実現しないと思うと空しく悲しいことです。

彼の「大阪歯科大学将棋部」への貢献度は、現役A級のプロ棋士高島一岐代八段(日本一の攻めで有名。後に九段)を部の師範として招贈したことであった。その甲斐あって部員の気力、槙力がぐっと上昇したのは言うまでもない。当時部長を務めていただいた数学の宮森康雄先生(大西さんの媒酌人)から「総合大学に混じって関西リーグA級二位は立派、見事じゃ」と賛辞を賜り、彼と部員一同が共に喜び合ったものだった。将棋部の合宿(毎年二回)も勿論一緒、夏のキャンプもアルバイトも一緒、青春の一ページが走馬燈のように浮かんでは消えて行く。彼は卒業後、天王寺ステーションの小室歯科診療所に勤務。四年半歯科医療を習得後、羽曳野市恵我之荘の自宅を改築、自信満々、意気揚々と開業、新進気鋭の若い先生ということで地元でも大評判の開業医として以降亡くなる直前まで現役で頑張っておられた。彼はちょっと頑固一徹なところがあったが、自分の意見を曲げず、思ったことはすぐ行動に移す有三実行の人であった。また、再々の病魔に対しても不屈の闘志で立ち向かった。四十歳台「耳I烏り」がしてかなわんと訴え、長年耳鼻科に通院すれど治らず、精密検査の結果左聴神経が脳内でミイラ状になっており、摘出手術の際術後感染症にも苛まれ大いに苦しむこととなった。後にクラス会の寝床でその経過について彼が熱弁をふるったことを覚えている。晩年は週三回の人工透析、その時も腹膜炎を併
発して大変だったらしい。それ以前はポータブル人工透析器を装着しながらゴルフをラウンド、同伴者は勿論、ギャラリー全員が驚樗のまなざしで見ていたに違いない。

最後にこれだけは書いておこう。詩吟教室で鍛えた三橋美智也の「古城」は天下一品だった。その美声ももう聞けなくて空しい。「浴室での安らかな最期(虚血性心不全)」と伸子奥さまからお間きし、唯一救われる気持ちになった。五十六年間の長い長いお付き合い本当にありがとう。私の青春はいつも貴兄と一緒でした。わがままな私の願いだけはよく聞いてくれましたね。そちらは時間はたっぷりあるはず、ごゆっくりマージャンの続きを楽しんで下さい。また会えるのはもう少し先になりそうです。ひとまずさようなら。
法名夏光院医徳日喜信士

(長島興亜記)

吉川義久先生を偲んで

去る9月18日突然言安先生よりヨッサンが亡くなったとの知らせに果然としました。7月に卒業50周年の同窓会が大阪で開かれ久し振りに出席した後、数人でお宅へお邪魔した時は元気でしたのに。翌日ご夫婦で天王寺駅まで送ってもらい、入院する予定の病室まで教わり今年一杯持つかなと言われ、冗談だろうと気にはしていなかった。8月には家族一同引きつれ高知までわざわざ来てくれて、観光もそこそこ昼飯を一緒にして女房の墓参りをして、それから大阪へ帰って行った。今思えば最後のお別れに来てくれたんだ。ヨッサンとは学生時代より何故か一緒にいたようだ。1年、2年の時はクラスは違っていたが、いつも我がクラスにいて何ら違和感を覚えなかっ
た。3年生からは下宿を一緒にしたり麻雀アルサロ等よく行った。ある時、タケとヨッサンと私でナイター(難波野球場)へ行った帰り3人の格好があまりにもひどいのでタクシーの乗車拒否にあい、やむなく佂ヶ崎の簡易宿泊所で靴を抱いて寝たこともある。

出身は奈良県の吉野で、春には花見、秋には松茸狩りとお世話になった事です。卒業後は家族でお付き合いしようと「阿保会」を結成。奈良のドリームランド、グアム島旅行や富士山登山などに行き、懐かしい思いで写真を見ているとその内の数人が故人となり、その中の一人になるとは!またある時は秋田へスキーに行こうと誘われ、飛行機、旅館、その他色々の手配をしてくれて毎年年末にはスキーに行って毎晩コタツで飲む酒の方が楽しみだった。その後、ヨツサンはご夫婦でテニスを始め、ウインブルドンを目指して練習をしていたそうです?私はゴルフで全英オープンを目指そうかなと趣味は違っていても年に何回かは会っていました。ある時ゴルフを夫婦でやりだし、いつか一緒にまわろうと思いながら同じコンペに参加し、組み合わせを見るといつも違っていてゴルフは数回しかご一緒していないのが非常に残念です。あの世にゴルフ塲があったらそちらで待っていて下さ
い。7月に会いに行き、8月に会いに来てくれて9月にお別れだなんて誰も信じられません。あまりにも想いが多すぎて、とりとめのない事ばかり書き申し訳ありません。残されたご家族の悲しみを計り知る事は出来ませんが心からお悔やみ申し上げます。“釈義深”本当にヨッサンらしい戒名です。

(西岡征二郎記)

平成28年度 大13 登美栄会

登美栄会の皆様、如何お過ごしでしょうか。昨年開催いたしました卒業50周年の記念総会をもって、会則に基づく全国登美栄会は解散し、卒業当時に戻した型の会としてスタート致しました。その後の状況については前回の同窓会報に掲載致しました。それ以降は幸いにして逝去された仲間もなく平穏に推移いたしています。11月3日には井堂孝純君が叙勲(旭日中綬章)の栄に浴せられ誠におめでたい事であります。彼の日歯会長としての業績が認められたものとお祝い申しあげます。

さて11月12日には大阪登美栄会の総会と懇親会が開催されました。当日はホテルニューオオタニ大阪に33名の仲間が集い楽しい一時を持ちました。その内容をご紹介いたします。

司会を上田俊夫君が引き受け小室智会長の挨拶の後、議長を後藤進君に託し曽我時雄君の会務報告、加藤仁朗君の会計報告を承認した後、全国の状況を松田が報告し、川崎柾史君のご冥福をお祈りし黙祷を捧げた後、今後の大阪登美栄会の在り方を協議しました結果、年度会費は凍結を止めて無しとし、手持ちの繰越金がある間は今迄通りの運営をし、その後についてはその時点で考えるとする事が決まりました。次期会長に小室君を再選した後、懇親会に移り野 秀孝君の乾杯の後、美味なる中華料理を頂き、曽我君の開演の辞で楽しい一時を閉じました。
各地でこのような集まりがあった場合等には松田まで御一報下さい。当会報に掲載致します。


(松田毅記)

平成28年度 大13 登美栄会

昨年10月31日に開催しました登美栄会50周年記念総会が盛大に終始した後、その後の会計処理などの残務整理を終え、会員の皆様には報告書を郵送させて頂きました。その後12月に牛村輝一君が、今年2月には野田浩平君と川崎柾史君がご逝去されてしまいました。心よりご冥福をお祈りし、ご報告をさせていただきます。

先日発生しました熊本大地震で心配されました人吉の那須君も甚大なる被害を受けることはなく、不幸中の幸いだったかと思っています。小出君より川崎君への追悼文を頂きましたので掲載いたします。今後、仲間の嬉しい、悲しい出来事や集いなどのある場合など、松田までご一報くだされば本欄に掲載させていただきます。親友のご逝去があった場合、特に親密に付き合っておられた仲間からの追悼文をお待ちしています。ご郵送くだされば本会報に掲載させていただきます。

(松田毅記)

川崎先生を偲んで

2月24日に父が肺癌で亡くなったと2月27日に突然お嬢さんから連絡が入りました。葬儀全般が終わったら小出に連絡する様にと言われていたそうです。川崎柾史君は大阪の名門、高津高校から入学し、私と数名(田中・油納・西村・山口)の阿倍野から通学している者と同じクラスになり、すぐに友人となりました。大学の帰りにはいつも旭町の珉珉の餃子で英気を養い、近くの喫茶店でコーヒーを飲み歓談するのが日課でした。彼は頭が良くハンサムでお互いに開業してから週末になるとミナミに出かけるのですが、どこへ行っても“もてもて”で羨ましく思うばかりでした。年数がたってミナミに出かける回数は減りましたが、電話は10日に1度位かけていたと思います。1年位前から電話の連絡がつかなくなり、体調が悪いのではと心配していましたが、彼の気持ちを察してこちらから強引に消息を知ろうとするのを遠慮していました。(それが良かったかはわかりませんが・・・) 春になると報告したいことがあるとの文面の年賀状を頂き、暖かくなるのを心待ちにしていましたが、この様な報告であったとは・・・驚きそして悲しさ淋しさに包まれています。阿倍野の連中も皆一様に君に会いたかったと残念
がっています。柾史君、君は最後まで僕達の脳裏に恰好良さを焼き付けたままあの世に旅立ちましたね。遠から
ず僕達阿倍野組も君と天国でコーヒーを飲んで歓談することになるでしょう。その日まで、柾史君待っていて下さい。

今は虚しさと悔しさで一杯です。

(小出敏博記)

平成27年度 大13 登美栄会

50周年総会、祝賀会を開催

去る平成27年10月31日(土)、大学卒後50周年の記念総会ならびに祝賀会がリーガロイヤルホテル大阪で開催されました。当日はご来賓として、同窓会会長生駒等先生、同専務理事の恩田信雄先生のご臨席を賜わり、最終的に102名ものクラスメイトが出席し盛大な大会となりました。今回の総会の終了をもって、従来から続けて参りました会則に基づく登美栄会を解散することが既に決まっていたことや、会費を無料とすること等の事柄もあってか、20周年以来の多数のクラスメイトの出席となりました。総会は曽我時雄君の司会のもと、中村正明君の開会の辞のあと、議長に後藤進君を選出。クラス代表の松田より50年を振り返ってのご協力への感謝の気持ちを込めた挨拶があり、報告に入りました。会務報告が金田順三君からあり、50年間で逝去せられた55名の仲間のご芳名を朗読後、ご冥福をお祈りし黙祷を捧げ、会計報告に入りました。牧宏君から今日までの2年間の会計報告があったあと、松田毅より今回の総会や祝賀会にかかる費用や、やむを得ずご欠席された仲間への解散記念品のお届け等の全ての残務処理のあと、役員会で承認を得て、会員の皆様方に最終的な決算をご報告申し上げたいということで会計報告は承認されました。そして岸井執君の閉会の辞をもって総会は終了し、続いて協議会に入りました。まず、協議会ではクラス代表および評議員の選出は、同窓会として必須であることの説明が松田よりなされ、今後、クラス会総会の開催はしないという前提で、新しく選出されたクラス代表に不測の事態が生じたときは評議員がクラス代表となり、次の評議員をお願いすることとし、評議員に不測の事態が生じたときは、クラス代表が新しい評議員をお願いするという前提で、クラス代表および評議員を選出していただきたいとの発言があり、これを了承したあと、新しくクラス代表に松田毅が、評議員に小室智君が選出されました。今後のクラス会をどのようにして行くかについて、色々な意見がありましたがこれらを踏まえたうえで、卒業時の原点に戻って考えていくということで終了しました。記念撮影のあと、光琳の間に会場をかえて祝賀会に移りました。

曽我君と女性アシスタントの名調子で開宴し、小室君の開宴の辞のあと、松田よりご来賓に対する謝意を含めた挨拶があり、ご来賓の生駒等会長よりご祝辞をいただき、恩田信雄専務のご発声で乾杯に移りました。料理はフランス料理のフルコースで舌鼓を打つ中、長年にわたり登美栄会の懇親会で、いつもテネシーファイブのリーダーとして会を盛り上げてくれていた永富研二君に感謝状と記念品が贈呈されました。その後、威勢のいい祝い餅つきが披露され、2時間半の祝賀会はあっという間に終宴を迎えました。松田のエールで校歌を力強く全員で斉唱し盛り上がったところで、中村正明君の心に染み入るような挨拶があり閉宴となりました。みんな50年を振り返り、心にジーンとくる熱いものを感じながら、また、いつか再会できればいいなあと心に念じながら散会しました。

青野紀昭君が総会直前にご逝去されました。
慎んでご冥福をお祈りし追悼文を捧げます。

(松田毅記)

青野紀昭君追悼文

あんなに一生懸命に体を鍛えていた君が急に逝ってしまうとは。90歳まで生きて年金の元を取り戻すとうそぶいていたのに。君が亡くなったとも知らずに、最後の全国登美栄会が終わったら、報告がてら新居浜へ出かけて飲み交わそうと買って置いた酒で献杯することになってしまった。初めて会ったとき「俺はなあ幼稚園のときからずっと一番で通してきた男や」と一発かまされた。入学式で「イチバン アオノノリアキ」と点呼されて「なっ! 間違いないやろう」と得意気に笑っていた顔が忘れられない。俺たちは、親父が専門3回卒で、一回り離れた姉がいる末っ子の長男、入ったのが剣道部という因縁めいた関係で、入学式で逢って以来、性格は真反対だったけれど妙に馬の合う仲だった。大石君や自称示現流の坂元君と違って剣道初体験の俺たちは、練習が始まると手には血豆、足の裏は皮が剥げて血だらけ、腕や脇はあざだらけになって、顔を合わす度にいつ止めようかと相談していた。結局、「お前より先には止めんわい」と意地を張り合ったお陰で卒業まで頑張れた。

君は、中学のときから親元を離れて大阪で暮らしていたためか、すこぶるヤンチャだったけど独特の自立した大人の雰囲気があった。下宿の部屋は、いつ行っても完璧に整理整頓されて塵一つ無く、洗濯物は折り目を付けて畳まれており、壁には自筆の水彩画が飾られていた。一見、刻苦勉励する学徒の部屋そのものだった。しかし抜群の男前だった君は、近所の居酒屋の常連となり、牧野村の可愛い娘達を片端から軟派していたのも事実だった。あれは50半ばも過ぎた頃かな、夜な夜な電話をかけてきて、愛読していたM・スピレーンやA・マクリーン達の描くハードボイルドな男の生き様について夜が白むまで、まるで若者のように語り合った。君のあの嘎れ声が懐かしい。そっちの様子は皆目分からないが、君のことだから極楽で天女と浮かれているのか、閣魔庁で鬼
共と酒を浴びているのか、それとも隻脚の剣士ここにありと天邪鬼を踏み敷いて大見得を切っているのか、いずれにしても、大いに楽しんでいることだろう。「元気か」と一言書き添えられた、あの酒落た賀状がもう来ないのは寂しい限りだ。すばらしい出会いと交情をありがとう さようなら

献杯に積もる想いの涙落ちぬ
青春の日に剣技競いし仲なれば

(矢尾和彦記)

平成27年度 大13登美栄会

50周年総会迫る

登美栄会の皆様いかがお過ごしでしょうか。卒業後50周年記念総会も目前に迫って参りました。昨年11月には大阪登美栄会総会が開催され、会長に小室君が再選され、これにより大阪での50周年総会の受け入れも万全となりました。その後、役員会を重ね準備は着々と進んでいます。5月にお願い致しました現時点での出欠のご意思では、100名もの参加者が見込まれています。間もなく最終的なご出欠のご案内をさせて頂きますので、
よろしくお願い致します。きっと楽しい総会になろうかと思っています。さて本会報で前回報告致しました後、4名の仲間を亡くしてしまいました。昨年10月に吉岡芳男君、本年1月に岡卓爾君、3月に益田成穂君、4月に広石動持君がご逝去されました。また、坂口邦彦君が昨年5月にご逝去されていましたとのご報告を本日受けましたのでお知らせ申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます。

(松田毅記)

岡卓爾君を偲んで

また一人、友が次の世に行ってしまった。本人も思っていたと感じるが、僕の葬儀委員長をやってからにして欲しかった。喋らせたら百戦練磨、さぞ上手い事運んでくれたであろうにl持ち上げると、まあ楽しい男で、我ら13回生は二番手を走る性格なのに彼は一番ばかりを目指す男だった。その為かな、早々に逝ったのは。なんて冗談では無いけれど、本人も我々も心残りです。それにしても政治が好きでしたな。そんなに東京ばかり行って何が楽しいのとよく言いましたが、がむしゃらにゼロ戦に乗って突撃してましたが、イスラム国を破壊出来たかどうか?でも僕にとっては神様;政治学は煙に巻き巻れるもの、税務署もフムフムと巻かれておくもの。時間が解決してくれるとか、技術以外の歯科医学全てを教えてもらった。本当に有難う。また、彼は運動をしないのにゴルフも器用にこなし、1ホール勝つだけで天下を取った程喜ぶし、長々とその話、「若く美しい奥様」も何回聞いたことやら。天上から「ハクシヨン」。しかし、彼の作った梅干は最高級品。あの酸っぱさは僕の孫共々忘れることはできません。本当に色々助けていただき、思えば嬉しくも悲しく良い友を見送ってしまいました。近い内に、次の世で楽しく酒を飲みあおう。待っていて下さい。合掌

(松尾寛記)

広石罰持先生を偲んで

4月15日午後3時過ぎに家内から広石先生が亡くなられましたとの連絡が来た。あまりにも突然な事なので、驚きと落胆で言葉が出ませんでした。便りの無いのも良い便りと元気で悠々自適の生活をしていると思っていました。もう何年も会っていません。奈良を離れて白浜に居を移してからは、余り便りが無く、元気にしているものとばかり思っていました。岩佐君が亡くなった時にも、入れ違いになった様で会う事が出来ませんでした。貴君と最後に会ったのは、所君の1周忌だったと思います。今一度会いたかったです。残念です。以前から糖尿病を患っているがコントロールが出来ていると話していましたね。健康には大変気を付けていた様ですが、お通夜で白浜の自宅にお邪魔した際、奥様からいろいろとお話を伺いました。海が好きだった君は早くから白浜に別荘を構えて、折々に奈良と白浜の生活をしていると間いていました。3年前に診療所を閉院して白浜での生活を楽しんでいましたね。昨年10月に胄癌と診断されて、自宅で抗癌剤の投与を受けながら療養に励み、副作用も無く治療を続けていたとの事。まだまだ頑張られると???もう一度会って、いろいろと話をしたかったです。

6年間の学生時代、君とは何時も一緒に遊び学びました。楽しい学生時代でした。卒業後、私は広大に、君は奈良医大で研鎮しました。辛い時にはいつも夜遅く電話で話をしたものです。今、君との学生時代の事が走馬灯の如く思い出されます。訓々とした中にも筋を通す君の性格に、いつも翻弄されながらも敬意を表していました。いつも気楽に、親友と言うより兄弟のように話ができ、歳を取るともにいろいろ話をする事も多くあり、海の好きな君と瀬戸内の多島美を眺めながら、語り合えることを楽しみにしていました。広石君何故、斯くも早く旅ったのか。君の胸中を思うとき、実に無念です。しかし、君の事だから、瓢々と所君や岩佐君に「俺も来たで」と挨拶をしながら、楽しく話をしている事でしょう。私達もそれなりに老いて行き、いずれは君の元へ行く日が来ます。その時は学生時代に戻って楽しかった事を話しましょう。ご冥福を心よりお祈り致します。合掌

(水野良行記)

平成26年度 大13登美栄会

登美栄会の皆様、如何お過ごしでしょうか。卒業後50周年記念総会の日程が内定致しました。平成27年10月31日(土)に大阪リーガロイヤルホテルで特段の事情が起きない限り、参加費を無料とし総会及び懇親会を開催する予定となりました。前回の総会で決定し、既にご報告致しておりますように、この総会終了をもって従来から続けてまいりました会則に則った登美栄会を解散することとなります。どうか健康にご留意されて是非ともご出席下さいますよう今からご予定下さい。詳しい案内は別途お知らせ致すこととなります。杼て本会報で前回ご報告致しました後、2名の仲間を亡くしてしまいました。6月に矢追雅浩君、7月に中野楠夫君がご逝去されました。慎んでご冥福をお祈りし追悼文を捧げます。

(松田毅記)

畏友 矢追雅浩君を偲んで

平成26年5月22日、矢追君の奥様より「主人が重傷の肝疾患のためもう終末期にあります。誰にも口外するなと主人は言いますが私の一存でお伝えします。」との電話。彼の意向も汲み年来の友人である薬師寺の山田法胤管長にのみ伝えました。6月1日に病床に訪れるとはや意識はなくその夜10時40分に逝去されました。思い返せば昭和34年大学に入学して間もない頃、偶然に近鉄奈良駅で彼に呼び止められそのまま一緒に旧友の薬師寺山田法胤君に会いに出かけたのが出会いでした。その後は彼も気に入って折に触れてはお寺に足を運びともに友情を培いました。專門課程に入り保存補綴の実習では、我が家の台所で彼をはじめ大学の先輩も呼び数人で眠い目
をこすりながら製作に励んだこともありました。彼と後藤進君と3人での北海道旅行、彼の車での箱根、東京、群馬の周遊と、楽しい学生生活を湿歌したのも良い思い出です。卒業後彼は口腔治療学教室の大学院に進まれ大
学院卒業後は後身の指導に当たられました。気さくで、学生の身になり、面倒見の良い先生と慕われていたと聞いています。昭和46年3月には、私の知り合いの大学数学教授令嬢の光子さんと結婚され翌年には長男充啓君が誕生されました。平成11年には臨床教授に就任、平成19年に退官され終日開業されましたが、天理高校野球部の応援に多くの時間を割いていたようです。昨年1月山田法胤管長のご子息の結婚式が彼とゆっくり酒を飲み交わし語り合う最後となりました。その後電話やり取りはあったのですが。奈良の天理の素封家の次男として生を享け、おおらかな性格でだれからも愛され、そして学問には真筆に向かい、人一倍家族を大事にされた矢追君。73歳での旅立ちはあまりにも早すぎます。これからまだまだ家族とのふれあいに多くの時を費やしたかったであろうと思います。知り合って55年、私の心にも大きな穴が開いた感じです。安らかにお眠りください。心からの哀悼の意を表します。

(岡田哲郎記)

中野楠夫君を偲んで

中野楠夫君が7月11日に天国に旅立たれました。昭和48年坪井康夫君より「北区登美栄会を作ろう」という発声があり中野君と知り合いになりました。中野君はODRG(スターディークラブ)に入会して、パンキーヒロソフィーP,M,S,テクニックによるモダンデンチストリーを勉強していると話していました。私も勉強したいと思い入会致しました。同時に同期生で作っている白亜会(スターディークラブ)にも紹介していただきました。中野君のおかげで多くの歯科医と知り合いになることが出来て感謝しています。私がODRGに入会して4年目の時でした。中野君がODRGのプレジデント(会長)選挙に突然立候補しました。私は反射的に壇上に駆け上がりアドリブで応援演説をしたのを今でも思い出します。中野執行部に入り中野君を1年間サポートしました。それから3年後に清歯塾(スターデイークラブ)が忙しくなり私は退会致しました。その後、自然に疎遠になりました。久しぶりに「還暦を迎えるので一度会って食事でもしませんか?」と彼から電話がかかって来ました。近況を話しながらこれから如何に対応していったら良いか?話し合うのだろうと思っていました。しかし「還暦を迎えるので引退する」との事でした。私は年賀状を出していましたが「年賀状は虚礼だから出さない」と彼は何時も云っていました。便りのないのは良い便り、元気に生活している事とばかり思っていました。今から思えば彼は60歳で引退したのは身体の調子がすぐれなかったのではないかと思われます。3年後脳伷塞になり、入院加療、リハビリと約10年間にわたり誰にも話さず、持ち前の強靱な精神力と根性で頑張っていたのかなと思います。どうもお疲れ様でした。これからは天国でゆっくりとお休み下さい。中野楠夫君のご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌



(吉田興二記)

平成28年度 大14 寿歯会

寿歯会卒後50周年記念祝賀会

澄んだ青空の気持ちよい秋空の下10月15日(土)私達大阪歯科大学大14回寿歯会卒後50周年記念祝賀会がリーガロイヤルホテルで開催されました。当日は、東は神奈川から西は香川から50名弱の参加があり、久しぶりに会う人も多く昔話に花を咲かせることとなりました。
第1部は寿歯会総会で、司会は富田啓二幹事で5年前の古希の会以降の物故の方々は前田純典、石原謙三、縄田和宏、松岡晴一、井上泰治、新谷宏道、木原道子、門司研一、松本喜雄、福本敬、日高晋典、上田五男、村岡魏、弓場敏克、高岡員樹、小笠原秀弥、岡田保利、高島法男、野田浩平、大坂尚史、日高慧、龍田宇内、久島文彬、及川紘子、吉田正道、中島利行先生(一人一人の敬称略)でご冥福をお祈りしました。

続いて、代田基朔大阪寿歯会会長、大西洋二全国寿歯会会長の挨拶の後、寿歯会の会員でもあります母校の川添堯彬理事長・学長の挨拶で、来春には新しく4年制の大学である医療保健学部が誕生します。口腔保健学科(歯科衛生士養成課程)と口腔工学科(歯科技工士養成課程)で4年後には口腔保健学士と口腔工学士の学士様が出来、超高齢社会に適応できる歯科医療を担える人材を養成することで大学の歯学部、医療保健学部の発展に私達も寄与出来たらと思っています。その後桝伸夫会計からの会計報告があり承認されました。次の講演会で、終活セミナーとして税理士法人YKCの北野喜一先生と弁護士の高砂健太郎先生から生きている内にやっておく生前準備で贈与、遺言書、エンディングノートや葬儀、相続問題があるということで、いよいよ人生の最終章も近づいてきたなと感じました。その後、全員揃って写真撮影をして、次いで楽しい祝賀会です。小生辻本勝の司会で、開会の辞は大阪寿歯会幹事長の佐々木淑子先生です。代田基朔先生、大西洋二代表の挨拶後、植田先生の乾杯の言葉で祝宴が始まりました。この日は広島カープがセリーグ優勝で広島の中井弘毅先生の喜びの言葉もあり、可愛いコンパニオンが運んでくれる料理に舌鼓を打ち(この日の屋台の料理は銭谷豊文先生の寄付です)、アトラクションはバリトン亭のカンツオーネの素晴らしい声を聞かせてもらいました。

和やかな雰囲気の内に閉会の挨拶は銭谷豊文先生で、4年後の2020年での大学同窓会100周年の記念の会に併せて開催する予定との事で元気で再会を約して閉宴しました。尚、二次会は瀬浦宏康先生のお世話で近くのクラブを借り切り遅くまで盛りあがりました。


(辻本勝 記)

大坂尚史君を偲んで

彼の計報の連絡を受け愕然となりました。12月下旬に彼から連絡があり、昨日もゴルフに行ってきた、忘年会にも出席していると聞き安心しておりましたが、年末に体調を崩され年明け早々に検査のため入院され、すでに末期肺癌とわかり療養を続けておられました。平成28年3月7日、私にとりましてもあまりにもあっけない彼の旅立ちでした。大学卒業を控えた歯科医師国家試験の前日、我が家に10名近い仲間が集まり試験の準備をしており、その仲間に彼もいました。50年余り前ですが、先日のことのように思い出されます。
彼とは大学入学後同じAクラスになり、初めての夏休みに徳島に遊びに来ないかと声を掛けていただき、お邪魔してご両親にも歓迎していただき、楽しい日々を過ごすことができました。学生時代何度かお邪魔して、浴衣を借りて阿波踊りの連にも加えていただきました。
彼は卒業後、徳島に戻り、秋にはご両親の期待のもと開業され、亡くなる2ヶ月前まで地域歯科医療に邁進しておられました。彼に対する人望もあり、県歯の役員として専務、副会長を長年務めておられました。我々卒業後も家族ぐるみの付き合いが続き、徳島、京都の間を行き来しておりました。

後年は大学同窓会の副会長を一緒に務めることができ、会う機会も多くありましたが、それでも「今、高野山にお詣り来ている」と高野山から連絡があり、私からは立山の雪の中から連絡したこともありました。徳島県歯の方々と京都に来られたときにもお声掛けをいただき、皆さんと何度か食事をさせていただきました。通夜、葬儀の会場でも県歯の方々から声を掛けていただき、彼が県歯や行政に対して尽くされた功績等をお聞きすることができました。

後日、改めて岸本、磯村両君と3人でご自宅へお伺いし、ご家族の方々と生前の彼の話等をいたしました。私自身、大坂尚史君を終生の友としてお付き合いできたことに感謝しています。合掌


(下村謙一朗 記)

平成28年度 大14 寿歯会

中島利行君を偲んで

本学に入学して数日後のことだった。夕闇迫る牧野の駅で、親しげに語りかけてきた一人の青年がいた。まだ少年の面影を残した風貌は、同級になったばかりの中島君だと気付いたが、なぜか永年の知己であるかの如く、車内での話は弾んだ。独特の人懐こい雰囲気で、彼は誰ともすぐに打ち解けて友人も多く、サッカー部の中心選手として、同期の青山康介君、西村満夫君らと共に活躍した。南河内の片田舎から出てきた私と違って、彼は大阪市の真ん中の西成区で育っただけに、都会の裏事情にも詳しく、市内の穴場にもあちこち案内して社会勉強?をさせてくれて、いつしか仲間うちで彼のことを「お師匠」と呼ぶようになった。そんな中島君だったが、抜け目なく勉強していたようで、学業成績は上位。特に補綴実習の作品は精巧かつ美的で、その腕を見込まれて補綴科に入局し、陶材を専攻して学位を取得した。口腔外科に入局した私とは毎日のように連れだって、夜に天王寺の小室先生の許で共に臨床の研修に励んだ日々。思えば、人生の中で最も充実した時であったかも知れない。

彼は、奈良の学園前で開業後も患者さんの信頼を集め、社保の審査委員などで会員の指導に尽力したものの、順風満帆の日は永く続かず、病を得て59歳で現役引退したことは無念なことだっただろう。共に登山もした。スキーもした。そんな若き日の体には二度と戻れず、やがて車椅子の生活となったが、学生時代から続いていた同期生7人のグループの家族ぐるみの集いには奥様の介助を得て欠かさず参加してくれた。ある日の集まりの時のことだった。歯科界にも弱りが出て、話せばつい愚痴が出る。「やってられん。もうやめてしまいたい。」という不満の声がお互いの口に出たその時、後ろの方から「そんなことで辞めてどうするんや!」という厳しい叱声が飛んだ。振り向けば、声の主は中島君だった。「俺の分も頑張って欲しいんや」そう訴える彼の目に涙を見て我に帰った。そして、その後10年以上も現役で働けたことは、中島君が後押ししてくれたお蔭と大変感謝している。彼の引退後は、阪大理学部の大学院生で将来を期待されたご長男が一念発起して阪大歯学部に編入して歯科医となり、中島歯科を継いだ。中島君は2015年夏から肺炎で体調を崩して、2016年1月7日、ご家族の暖かいまなざしに看取られて息を引き取り、同期生で実家がお寺の杉中功一君と三好慶信君が読経して彼を送った。そして、私達の7人グループは三好慶信君、淀泰尚君と私(野田)の3人のみとなった。「おお、よう来たな!」 仏壇の遺影は、そう語りかけているようで、あの世で再び酒を酌み交わす日も遠くないと思う。「お師匠さん! 天国の穴場捜し、よろしく頼んだで!」

(野田泉記)

全国寿歯会だより

本年秋10月14日(土)午後4時、大阪リーガロイヤルホテルにて、寿歯会卒後50周年の集いを、大阪寿歯会(代田会長)のお世話で開催いたします。
是非参加して、先に黄泉の世界へ旅立った友の冥福を祈念しながら「楽しい集い」を企画しておりますので、当日の再会を期待しております。

(幹事)

平成27年度 大14 寿歯会

龍田宇内君を偲んで

平成27年5月27日、正午より上六都ホテルにおいて龍田先生を偲ぶ会がとり行われました。当日、大歯テニス部
の先輩後輩や、彼が主催していた矯正の勉強会「TOSG」で指導を受けられた先生方、そして生涯を打ち込まれましたネパールの歯科診療所の関係者の方々等、80数名の人達が集まられ、彼の人徳の大きさに改めて感銘を受けました。平成27年2月27日午後0時37分、肺癌によって亡くなる迄、彼のありし日の姿がスクリーンに次々と写し出されると、走馬燈のように昔のことが想い出されて参りました。初めて会った1年E組で机を並べた日、次の日のあの犬小屋の並んだテニスコートでの再会、その二人の出会いに今は亡き縄田君、高木君が加わり1年生から6年生までのテニス部4人組の青春時代が始まりました。授業が終わるとすぐテニスコートに集まり、日が薑れるまで練習に明け暮れました。練習が終わると龍田君の下宿で夕食をご馳走になり、麻雀を教えてもらい、いつも龍田君の一人勝ちでした。1年生の5月のゴールデンウイークには、例の4人組に何故か成川君が加わって、5人で京都の山科から二泊三日で琵琶湖を一周をしたのが今でも強烈な想い出として残っております。学生時代6年間テニスに打ち込んで、4人の絆はより深いものになりました。

卒業後、籠田君は矯正科に残り、僕たちは開業医の道をたどりました。矯正家としての彼は同級生の松本君とペアを組んで顎切で一躍名を挙げる一方、TOSGを作って多くの矯正臨床家を育て上げました。僕もそのお蔭で今でも矯正をやっております。本当に感謝感謝です。不幸にも高木君縄田君は早くに旅立ち、そして今度は龍田君までがいってしまいました。残された僕は今年、子供の為に新しい診療所を建てたばかりです。まだすぐに君達の処に行くわけにはいきません。テニスのメンバーとしても一人足りないし、麻雀するにも-人足りないけど、もうちょっと待っていてください。そのうち参ります。その時は龍田君18番の「言い山脈」を合昌しながら天国でもう一度、青春時代のやり直しをやろうや。龍田君本当に長い間お疲れさんでした。ゆっくり休んで下さい。さようなら。

(西川文男記)

同級生が次々黄泉の世界へ旅立ち寂しくなってきておりますが、来年秋には卒後「50周年の記念の集い」を大阪寿歯会(代田会長)を中心に準備を進めております。これから「集う」機会も少なくなりますので、ぜひこの「集い」に参加されるように切望します。詳細は次号、あるいは葉書で通知させていただきます。なお、京都の高島法男君、高知の岡田保利君も旅立たれました。冥福を祈念致しますとともに。弔文が届き次第、掲載させて頂きます。

(幹事)

平成26年度 大14 寿歯会

寿歯会B組クラス会(そのⅠ)

前回神戸でのクラス会から早くも3年が経ち、月日の経つのが一層早く感じられるような年齢になったと実感する今日この頃である。今回は平成26年7月に母校附属病院14Fの『レストラン・プラザ14』で開催したところ12名が参集した。温泉やプールのお誘いもあったが皆が一様に「疲れが残る」という事で希望者が無かったのも頷けるような気もしました。出席者の中から石崎君のギター演奏や佐藤君のボーカルが有ったりで食事会は大いに盛り上がり、次に地上300m日本一の超高層ビルの阿倍野ハルカスに移動し天王寺の街の変貌に驚いたりし
て楽しい時間を過ごした。我がクラスも何時の間にか35名を数えるのみの在籍者となり「これから何回再会出来るやら」という事で早速次回は来年(平成27年)に北陸で開催の約束をし散会した。

(槇野明弘記)

寿歯会B組クラス会(そのⅡ)

『新幹線を利用して昼食だけ?』というような声もあり前回のクラス会開催から僅か数か月後の平成26年11月12~13日に今年二回目のクラス会を開催することになった。三々五々芦原温泉「つるや」に集合したのは十
名。平日の開催ではあったが現役組も休診までして出席してくれた。この間僅か数か月のあいだに黄泉への旅路を辿る者もあり、体調不良を訴える者、老々介謹にて自宅を離れられない者ありで、世の移るいの早さに驚くばかりである。健康で集う事の出来た同窓もそれぞれの歩んできた人生に思いを馳せることもあり、先に人生の
終止符を打った友への黙とうを捧げた後は夜がふけるのも忘れ話が尽きることはなかった。翌日、来年平成27年5月頃の再会を約し各自家路についたのでした。

上田五男君をしのぶ

上田五男君は平成26年7月30日に天寿を全うした。72歳であった。大阪歯科大学入学以来、親友として、また畏友として長く付き合った私しか知らない上田君の一面を語らせていただく。大学3年生(1963年)の3月、天満橋学舎7階の廊下に3学年生理学期末テストの受験資格者リストが張り出された。240余名中、私と上田君だけが失格であった。すぐさま上田君と当時生理学助教授であられた覚道幸男先生の部屋を訪ね、1時間の出席不足を陳謝するとともに、もし受験を認めていただければ舂休みに生理学教室に出頭して試験管洗いの奉仕をさせていただくと懇願した。覚道先生は「まあ受けてみなさい、試験結果をみて君たちの及落を判定するから」、と寛大な応対をしてくださった。幸い二人とも合格点が取れて、進級させていただいた。舂休みの初日午前11時に地下解剖学実習室の前で上田君と待ち合わせた。一方的に覚道先生と約束した試験管洗いの奉仕を果たすためである。いくら待っても上田君は現われなかったので、仕方なく私ひとりで7階の生理学教室に出頭した。この試験管洗いがきっかけで、私は生理学教室とつながりができ、大学院での生理学専攻に至った。卜用君は当時衛生学教授の柳生嘉雄先生とのつながりで、大学院では口腔衛生学を専攻した。舂休みに生理学教室に通い始めて間もなく、当時講師の先生から「天野君、君の生埋学実習レポートは本当に君が言いたのか?」と尋ねられたので、私はとっさに自分で書いたと返答した。だが事実は、上田君と相談しながら書いたのであった。当時の生理学実習レポートの設問には、たとえば『血球数の算定』では、赤血球数算定値に対する確率誤差および標準偏差を算出し、さらに赤血球数算定値の推計学的信頼限界を信頼度99%および95%で求めさせるという、大学院初等レ
ベルの難問があった。かつて滋賀県立膳所高校(前身は膳所藩校)から京大工学部を目指していた上田君は私に、多数回赤血球数実測値がガウスの正規分布をすることから説き起こし、標本平均から母集団の平均値を99%および95%信頼度で推定するやり方を、図解を交えながら説明してくれた。まだ統計処理などやったことのなかった私は、彼の説明に聞きほれていた。我々が大学院を修了した1970年のわが国では、自民党の『1県1医大』政策に則って全国各地に雨後の竹の子のように医大が誕生し、その政策はすぐに歯大にも適用され、同年埼玉県坂戸市に城西歯科大学(現明海大学歯学部)が開設された。

1972年4月上田君は同大学口腔衛生学講座の講師に就任した。1986年2月東日本学園大学(現北海道医療大学)は上田君を歯学部口腔衛生学講座の教授に招膳したが、悲劇は2000年舂に起こった。国試問題漏洩事件である。2001年正月上田君は逮捕され、逮捕を受けて大学は懲戒処分を発表したので、上田君は退職金なしに退職した。同歯学部3年生であったお嬢様も余儀なく退学した。この事件が最初にテレビ放送された時、顔なじみの大阪歯科大学の某教授も映っていたが、結局奥羽大学、日本歯科大学、東日本学園大学の、3大学のそれぞれ口腔衛生学教授が逮捕起訴された。「指示どおりにA教授からB教授にFAXを回しただけなのに」と、上田君は事件への連坐をくやしがっていた。2001年3月上田君の公判は開始され、最高裁まで争ったが2003年9月に結審した。懲役10か月、執行猶予3年であったがʻさらに歯科医業停止5年が加わった。石川県で開業する、上田君の親友で自称悪友の牧野弘嗣は当時、「医道審議会かなにか知らんが、刑事処分の後追いでウーさんの息の根をとめる歯科医業停止の処分はあんまりだ!」と憤慨していた。裁判が終わり無職の時を経て2008年4月上田君は心ある大歯先輩、岸幹二先生の姫路歯科衛生專門学校で非常勤講師を開始した。この時代、彼は経済的に相当困窮していたであろうが、時折クラス会で顔を合わせても、いつもの穏やかな笑顔のウーさんであった。裁判後も彼と親交のあった歯科医薬品メーカー常務取締役のN氏は、2014年7月末にガン死するまで上田先生は経済的に、精神的に苦しい日々を過ご、しておられたと証三している。お人好しで、社交ベタで、緊張すると手のふるえる上田君は、人間を相手にする医業には向いていなかった。県立膳所高校を卒業して、1,2年の浪人をしてでも京大工学部に進んでおれば、彼の人生はもっと輝かしいものに展開していたであろうと悔やまれる。

(天野仁一朗記)

村岡魏(タカシ)君を偲んで

9月19日午前8時過ぎ、携帯が入った。「主人が昨日亡くなりました。」と村岡夫人から訃報が告げられた。偶然にも2日前の17日に久しぶりに彼に電話した時。奥様がでられ、主人は体調がすぐれず休んでいますが、横にいますので話してくださいとつないで頂いた。彼の声は以前と違い弱々しく、はっきりとせず 二言三言の会話であったが、これが最後の会話となった。昭和35年の舂、白亜の学塔に共に入学した。同組となり、お互い学生服姿で、狭くて古い木造の教室で机を並べ、授業は午後三時には終わり、暇と時間のある私達は、君の下宿に集まり歓談した。麻雀のルールも知らない四人で、当時初めて発売されたインスタントラーメンを一つの丼茶碗で
すすりながら、徹夜でゲームを楽しみ、その後も何度か卓を囲んだ。その時のメンバーは京都の岩田明君今は亡き京都の山村弘君と私の四人、この交友は卒後も続いた。君は枚方で開業医の道を進み、地域の歯科医療に尽くされ、その間もスポーツ万能の君はボーリング、にゴルフに腕を上げ、特にゴルフは木津川CCのクラブチャンピオン戦にも出場した。その君を中心に、このメンバーで月に一度のゴ、ルフを楽しんだ。君と山村君、岩田君と私がチームとなり対戦し、当然、成績は君達のチームが勝利して、そのチョコレートで幾度と食三会をした。

またアルトサックス奏者として活躍された山村君の軽音楽の発表会には、毎年三人共出席し、楽しい雰囲気に酔うていた。青春時代の真ん中から歯科医になり、社会人となってからもお互い何かと多忙にもかかわらずこの交友は続き、これは1回生の春君とのどちらからともなく始まった交友がスタートだった。魏君、数々の楽しい人生の想い出を与えてくれて、誠に有難とう。今頃は一足先に旅立った山村君とゴルフ、音楽に会話が弾んでいる事だろう。ご子息も君の教えに従って、歯科医業の道を歩んでおられると間いております。魏君、いづれ私もそちらに参ります。その節には今迄と同様、宜しくご誘導をお願いします。

(植西輝夫記)

他にも旅立たれた小笠原秀弥先生及川紘子先生のご冥福を祈念いたします。尚、原稿が届き次第次号に掲載させて戴きます。(幹事)

平成28年度 大15 いちご会

いちご会の皆様へ

ご無沙汰しております。お元気にお過ごしの事と思います。同窓会報に投稿するのが久方ぶりで、同窓の皆様からお声がけがあります。また、同級生の叙勲・表彰のお知らせを結構頂きます。おめでとうございます。
さて、いちご会は、2017年3月で卒後50年を迎えます。大阪歯科大学同窓会名簿(2016) がお手元に届いていると思いますが、そこには大学第15回164名(昭和42年卒 卒業者数220名) と記載されています。故人の欄には48名のお名前が記載されています。
過日“葉書”で「卒後50周年記念いちご会同窓会」を開催する旨のお知らせをさせていただきました。うれしいことに居所不明の返送は一通もありませんでした。直近、届いた名簿で、これから皆様に連絡が間違いなくできる証が出来ました。
新年に入りできるだけ早い時期に、実行委員会を開催して、更なるお知らせをさせていただきます。開催時期は、平成29年9月末頃に大阪で予定をしております。
皆様の元気なご参加を楽しみにしております。


(岩間総一郎記)

平成28年度 大16 天章会

平成28年度総会 福田滋君・小林三男君叙勲受章祝賀会開催

福田君(京都府)、小林君(滋賀県)は既報(同窓会誌本年夏号)のとおり、それぞれ旭日双光章受章の栄誉に浴されました。平成13年秋・西田武泰君、23年秋・饒波正太郎君、26年春・岡本学君、同年秋・大橋寛治君に次いでの国家表彰受章で、総会と同時に祝賀会を開催し、敬意と祝意を表した。

第2回役員会開催 (平成28年10月15日 プラザ14)

会長挨拶の後、出席者を確認した。
安達素行
大迫勲
北村康栄
高島洋
日野哲雄
天羽 峻
大野榮
河見忠雄
鶴身敬三
堀井宏雄
生駒等
岡田太郎
小林三男
豊川輝久
山口邦夫
上田雅俊
岡本吉一
新谷衛
久富明宏
計19名(敬称略)

会務中間報告(庶務、会計)の後、学内報告、本部同窓会報告があった。続いて議事に移り、28年度総会の議題、議長候補者、次期総会担当県の確認、次期会長選考方法、選出方法、候補者について議論した。受章祝賀会については進行方法、司会進行役などについて詳細に検討し、盛会に向けて努力することを確認した。また、天章会卒業50周年(平成30年)、大歯同窓会設立100周年(平成32年)に向けて今後とも生駒等会長を天章会挙げて全力で支えることを誓い合った。

天章会総会 (11月12日午後3時 プラザ14)

司会役・日野哲雄君による開会宣言、鶴身会長の挨拶があったあと議長に中村伸也君を選出し、報告、議事へと進んだ。

1.庶務報告(大野榮君)
物故者: 昭和43年卒業以降平成26年まで31名、27年0名、28年10月現在まで5名 (1月14日・藤本泰道君、3月12日・長楽謙輔君、4月26日・北川武彦君、9月10日・福本敦君、9月11日・小野博人君、ご家族:南暢彦君・御母堂1月21日、中野崇君・御母堂3月2日、田中逸朗君 御令室5月9日、米田輝男君・御母堂9月7日)の報告の後、黙祷を捧げた。天章会会員には弔慰金(天章会規定)、弔電或いは弔慰文を送りました。秋の叙勲 (11月3日付)で豊川輝久君(兵庫県)が旭日小綬章、板倉紘一君(兵庫県)が瑞宝双光章を受賞したことが披露され、敬意と祝意を表した。

2.同窓会報告(生駒等君)
平成28年度理事・支部会長・クラス会代表者合同会議(9月24日・リーガロイヤルホテル)に於いて支部会並びにクラス会の活性化と本部同窓会との連携について、平成28年度通常総会の開催(29年3月11日)、同窓会設立100周年記念大会(32年10月24日)などが検討された。記念大会はリーガロイヤルホテルに於いて学術講演、学術フォーラム、文化講演、記念誌、記念品、企画委員会の設置などが考えられている。天章会からは久富明宏、岡本学、大野榮、山口邦夫、鶴身敬三君が委員に選出されている。

3.学内報告(上田雅俊君)
平成29年4月から牧野学舎に『医療保健学部』を開設し、歯科衛生士養成課程の『口腔保健学科』と歯科技工士養成課程の『口腔工学科』のふたつで構成し、それぞれ4年制であることが発表された。

議事
1.平成26、27年度収支決算が上程され、監査報告のあと可決された。
2.次期会長改選の件が上程され、現・鶴身会長が再選された。
3.次期総会(平成30年)の開催担当は兵庫県に決定した。

協議
同窓会本部に生駒会長はじめ副会長1名、常務理事6名、理事2名、計10名もの役員を送っている天章会は本部が掲げる組織ならびにクラス会の強化は勿論のこと、全会一致で生駒君を支える決議をした。今後の運営については会員の高齢化や社会的、経済的背景、2年後の平成30年には卒業50周年を迎えることなどから建前を捨てて、地に足をつけて本音で歩んでいけば、誰もが参加しやすく、そして組織の活性化を促すことに繋がる、との意見の一致を見た。

福田滋君・小林三男君叙勲受章祝賀会 (総会と同時開催)

副会長・曽我恒夫君の開会のことばで始まり、受章者両君の経歴紹介の後、発起人を代表して全国から集った46名の会員に対して鶴身会長の挨拶があった。記念品を贈呈し、同窓会本部・生駒会長、京滋代表・久富明宏君、友人代表・堀井宏雄君からのお祝いのことばが送られて、祝宴、懇親会に移った。
大畑裕彦君による乾杯の音頭のあと、花束が贈呈され、出席者がそれぞれから祝意と称賛の声が上がるなかで、府、県知事からの勲章伝達式や参内した皇居での天皇陛下拝謁の様子が語られると、祝賀会は最高の盛り上がりを迎えた。そして、福田、小林の両君は今回の栄誉と同期生の温情を心に刻んで、一層の精進と努力を重ねることを誓ってお礼のことばとした。
最後に岡田太郎君から天章会の結束と発展、全員の健康を祈念した閉会のことばがあり、祝賀会は全て終了した。 (鶴身敬三 記)


平成28年度 大16 天章会

福田滋君、小林三男君 旭日双光章授章

福田君は京都府歯科医師会員、小林君は滋賀歯科医師会員として活躍しているところですが、多年にわたり地域歯科医療・保健の発展に寄与された功績により福田君は昨年秋、小林君は本年春、旭日双光章授章の栄誉に浴されました。平成13年秋、西田武泰君、平成23年秋、饒波正太郎君、平成26年春、岡本学君、同年秋、大橋寛治君に次いでの国家表彰で、心からの敬意を表します。

第1回役員会開催

(平成28年4月16日 プラザ14)
日程1 会長挨拶

日程2 出席者確認
豊川輝久 日野哲雄 岡本学 上田雅俊
大迫勲 大野 榮 河見忠雄 山口邦夫
関根紀彦 関本恵一 佐本高明 浜田邦夫
小林三男 岡本吉一 西田健 中村伸也
鶴身敬三 計17名

日程3 報告
平成27年度の会員親族物故者、南暢彦君のご母堂、中野崇君のご母堂、長楽謙輔君(鹿児島県・3月12日逝去・大学44回長楽由美さん、奥様礼子様より同窓会事務局に連絡あり)。大橋寛治君の叙勲祝賀会などの諸報告が大野 君からあった後、物故者のご冥福を祈って黙祷を奉げた。平成27年度の会計概要並びに約248万円の保有が河見忠雄君から説明された。続いて大学本部同窓会の諸報告が本部副会長の中村伸也君からなされた後、学校法人の歯学部・歯学科関連について、歯科技工士、歯科衛生士学校の4年制化など、さらに歯科医師国家試験の成績やその内実について詳細且つ丁寧な報告が上田雅俊君からあった。

日程4 議事
平成28年度の総会を11月12日(土)午後3時から大学附属病院14階レストラン 『プラザ14』で開催することに決めた。併せて、昨年11月3日旭日双光章を受章した福田滋君を表敬し、総会時に祝賀会を同時開催することに決した。

日程5 協議
天章会の今後の運営について、会員の高齢化や社会的背景、平成30年(2018年)に卒業50周年を迎えることなどから、運営に関しての具体的な方策を求める発議がなされたが、同窓会会長の生駒等君が本部同窓会運営に全力投球している現在、天章会は全会一致で彼を支えなければならない、との発言もあり、最終的には11月の総会の場で協議できるように慎重に検討を続ける方向性で意見の一致をみた。以上で平成28年第1回役員会を終了した。

追記:役員会以後の事柄を記します。
4月26日に北川武彦君(京都府)が逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。天章会から供花、弔慰金五万円(天章会規定)をお送りしました。また、3月12日に長楽謙輔君(鹿児島県)が逝去されました折には、同窓会事務局を通じて連絡を受けたのが通夜当日で、急いで弔電、供花、お悔み文(ファックス・最速の手段と判断しました)を送り、後日に弔慰金五万円(天章会規定)をお送りしました。ここに謹んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。5月9日に田中逸朗君(愛媛県)のご令室様が逝去されました。お悔み申し上げ、ご冥福をお祈りします。
今後、適宜役員会を開き、11月12日(土)の総会、小林三男君の叙勲授章祝賀会、卒後50周年の件などについて検討する予定です。

(鶴身敬三 記)

長楽謙輔君を偲んで

平成28年3月14日午前8時頃、長楽夫人礼子さんより電話があり、主人が3月12日19時58分に亡くなり(死因は不慮の事故による脳挫傷)、今日通夜で明日15日に葬儀をおこなうとの事であった。余りにも急なことだったので詳しいことは聞かずに、三楽会(草野球チーム 牧野ダンディーズを母体とした大学16回生の集まり)の皆様に連絡するから葬儀について FAXをしてくださいとお願いし、三楽会の皆様に手分けして連絡していただいた。その結果、神戸の田村忠昭君、島根の原田紀孝君、姫路の故山本健一君の夫人かずこさん、そして、私と家内の5名で鹿児島県薩摩川内市の川内中央斎場で行われた葬儀に参列してきました。

葬儀式場に入ると、長楽君の写真(楽しそうな旅先での写真)が飾られており、BGMでデキシーランドジャズが流れていました。そういえば、彼が大学卒業後住んでいた守口の家に行った時、スイングジャーナルという雑誌が沢山あり、ジャズのレコードをかけ、本人は畳の上でドラムのブラシを使用して、あたかもバンドの一員になっているかの如く演奏し、悦に入っていたことを思い出しました。読経が始まり、弔辞、焼香と式が進む中、私の頭の中で、彼と出会ってからの記憶が目まぐるしく駆け巡っていました。その時の事を思い出しつつ、彼を偲んでみたいと思います。

大学3年の時、私も準硬式野球部に入部し、4年には長楽君が主将、私が主務という立場で野球部のお世話をさせていただきました。そして、合宿を長楽君の故郷、川内市で行いました。どこに泊まったのか覚えがないのに、川内在住の先輩から、やかんに入った芋焼酎の差し入れをしていただき、芋焼酎の初体験をし、なんと臭い酒だなと思った事を思い出します。長楽君いわく、焼酎は「さつま白波が一番うまいとの事。(50年前の事ですから)大学を卒業し、昭和44年には三楽会が京都の花背で開催され、その帰りに鞍馬山の峠で路肩がすべり、車が転落するという事故にあった。その車には、長楽君と私が乗車しており、車がフワーと宙に浮いて回転し、どこまで行ったら止まるのかと思っていると、杉の木にあたり崖下数メートルの所に二人は頭が下になった状態で止まってくれ命拾いをしたこともあった。車は大破。前後のウインドウガラスはこっぱみじん。不思議なことに二人とも無傷であった。あの時は三楽会のみんなに感謝したよね。城山観光ホテルで挙行された、長楽君夫妻の結婚式で司会という大役をさせていただいた事も思い出されます。その後、香港が中国に返還される前年(1996年)に君達夫婦と私達夫婦の4名で香港旅行に行き、楽しい時間を過ごした事も思い出しました。

このような事を思い出しつつ、葬儀に参列していたのですが、鹿児島県歯科医師会 会長 森原久樹先生、大阪歯科大学同窓会鹿児島支部 支部長内倉厚弘先生の弔辞を拝聴し、鹿児島県歯科医師会の副会長を9年間、同時に鹿児島県歯科学院専門学校長を9年間務められ、歯科衛生士、歯科技工士の養成に取り組まれていたこと知り、長楽君ならのよい教育をしただろうなと思いました。

長楽君への思いは尽きませんが、君との事は私も一生忘れることはないでしょう。いつも笑顔を絶やさず、にこやかに、ゆっくりと話されていた長楽君、音楽が好きだった長楽君、野球が大好きだった長楽君、お疲れ様でした。どうぞ、安らかにお眠り下さい。

(大川幸矩 記)

平成27年度 大16 天章会

大橋寬治君叙勲受章祝賀会開催

大橋寛治君(和歌山県)が昨年秋、旭日双光章受章の栄誉に浴し、本年4月11日の天章会第1回役員会において受章祝賀会の開催を決定したことは周知のことで、その後、同役員会で設置を認められた「小委員会」で準備を進めた。また同時に、23年秋に同章を受章しながらも天章会として祝意を表していなかった饒波正太郎君(沖縄県)に
対しても深く陳謝し、祝賀会開催の趣旨を伝えて同氏の意向を伺ったところ、「ここ数年、心臓疾患で2度の緊急搬送を繰り返したので、現在のところ体調に全く自信が持てず、出席はできないけれども皆さんの気持ちは大変うれしく思います。どうかよろしく伝えてください」とのことで、遅ればせながらもお祝いを送り、天章会として心から敬意を表した。
祝賀会は8月29日(土)午後4時30分から大学附属病院プラザ14で、全国から35名の有志が集い、以下の次第で開催された。

開会のことば 天章会会長挨拶 曾我恒夫
経歴紹介 司会者 鶴身敬三
記念品贈呈
お祝いのことば
大阪歯科大学同窓会会長 生駒等
前兵庫県歯科医師会会長天章会相談役 豊川輝久
友人代表 牛村剛
乾杯 大畑裕彦
花束贈呈 生駒佳子
謝辞 旭日双光章受章者 大橋寬治
閉会のことば
天章会副会長 堀井宏雄

出席者それぞれから祝意と称賛の声があがり、祝賀会が粛々と進められるなかにも、進学課程・牧野時代の懐かしい思い出話や、楽しく、可笑しく、恥ずかしくもあるエピソードが語られるなど、誠に和やかな、受賞者に相応しいパーティーとなった。大橋君の謝辞のなかでは、勲章伝達式会場の和歌山県庁で県知事から勲章・勲記が授与され、上京し、参内した皇居での受賞者の功労を称える天皇陛下拝謁の様子が語られると、祝賀会は最高の
盛り上がりを迎えた。そして、今回の栄誉と同期生の温かい温情を心に刻んで、一層の精進と努力を重ねることを誓って御礼のことばとした。最後に天章会の結束と発展、全員の健康を祈念した閉会のことばがあり、祝賀会はすべて終了した。

(鶴身敬三 記)

平成27年度 大16 天章会

大橋寛治君 旭日双光章授章

大橋君は和歌山県歯科医師会、有田歯科医師会員として活躍しているところですが、多年に渡り地域歯科医療・保健の発展に寄弓された功績により昨年秋、旭日双光章授章の栄誉に浴されました。平成13年秋、西田武泰君、平成23年秋、饒波正太郎君、平成26年舂、岡本学君に次いでの国家表彰で、心からの敬意を表します。

第1会役員会開催

(平成27年4月11日プラザラザ14)

平成26年11月15日開催の総会において、不肖・鶴身が平成27・28年度を任期するクラス代表ならびに会長に選出され、本年4月からその任に就くことになった。日程、会長挨拶、出席者確認(27名)、会務中間報告(瀧野誠一君)、会計中間報告(新谷衛君)、本部同窓会報告(生駒等君)のあと、議事にうつった。

1. 役員選任
副会長 堀井宏雄岡田太郎、曾我恒夫
幹事 上田雅俊、大迫勲、大野榮、北村康栄、河見忠雄、関根紀彦、山口邦夫、関本恵一、佐本高明、天羽峻、浜田邦夫、久富明宏、新谷衛、瀧野誠一、高島洋、小林三男、岡本吉一、西田健、中村伸也
相談役 生駒等、豊川輝久、岡本学、福田滋
監事 池田修造、日野哲雄
(以上、29名で構成。敬称略)

2.総会
平成28年秋、大阪担当で開催することに決定した。

3.国家表彰(旭日双光章)表敬
慶弔規則第2条に基づいて受章者に敬意を表し、祝賀会を開催することに決定した。

協 議
同窓会本部に生駒会長を始め、副会長2名、常務理事7名、理事4名、計14名もの役員を送っている天章会は、本部の平成27年度事業計画の柱である大学への協力を支援、クラス会、支部会の組織強化と本部との連携のふたつの項目に対して、強く支持し、支援しなければならない、と決議した。また、高齢化する天章会会員のために建前を捨てて、本音で組織の強化と運営を図れば誰もが参加し易く、気軽に連絡を取り合い、本部が力を込める同窓会組織の機構改革に繋がり、組織の活性化を促すことになる、との意見の一致をみた。また、会員の慶弔費用や平成30年に卒業50周年を迎えるときの記念事業のために、その対策を検討するための小委員会の設置を決定し、協議を終了した。そのあと、同所にて顔合わせ役員懇親会を開き、中村伸也君の閉会の辞で締めくくった。

(鶴身敬三記)

平成27年度 大17 つつな会

つつな会 総会・懇親会を開催

つつな会平成27年度総会・懇親会は平成27年10月3日(土)京滋支部諸君の協力のもとウエスティン都ホテル京都において開催された。出席者は70余名となり、これまでの最高数であった。欠席者からも多数の近況報告が寄せられ、つつな会の結束が示された。総会に先立ち、来賓として生駒等同窓会会長と恩田信雄専務理事の出席をいただき、生駒等会長は「17回生とは学年が近いこともあって、私の大学や同窓会への思いも理解をいただけるようだが、若い卒業生とは何か気質が違うようだ」と挨拶をし、国試現況報告もいただいた。総会は住谷幸雄君の進行のもとで始まり、奥田健会長は挨拶で「きめ細かい相互連絡が確実に取られるよう組織の再構築が必要で、さらなる発展を期す」と述べた。大橋国夫君を議長に選出し、最初に物故者36名に弔意を示した。議事録署名人に上田勝利、峰晴昭夫両君を指名したあと、報告事項(住谷幸雄、竹安克彦、緒方 幸の3君)があり、協議では、第一号から第四号議案の説明協議のあと全議案が承認された。第三号議案の役員選出では奥田健君の続投が了承された。奥田君は「3年後の卒業50周年をこれまで以上のご支援を受けて迎えたい」と述べた。森勝利君の閉会の辞で総会を終えた。続いて、つつな会懇親会に移った。藤井征君の司会のもと会長挨拶、和田明人君乾杯の音頭と進み、稲田義仁君ご令室と土井孝夫君ご令室にも加わっていただき、楽しい懇談が続いた。今井一彦君のご機嫌な対応もみられた。途中、京都のきれいどころの舞い、音曲はまるで全員が座敷に上がっているさまを呈していた。矢富義昭君のエールと学歌斉唱で再会を期して散会となった。

(親里嘉健 記)

平成27年度 大17つつな会

学院葬で田中義弘君を送る

同級生も献花

前兵庫歯科学院校長田中義弘君の学院葬が兵庫県病院歯科医会、神戸市立医療センター中央市民病院歯科同門会、大阪歯科大学歯科放射線学講座同門会の共催で11月22日(土)午後3時から兵庫県歯科医師会館で行われた。式では木原卓司君が歯科放射線学講座同門会を代表して弔辞を読み上げた。県内外から同級生16名も献花をし別れを惜しんだ。

親友、田中義弘君の計報がもたらされたのは2014年10月1日午後9時30分頃だった。彼の奥様、惠美子さんからの電話「もしもし、田中です…。今日、15時13分、主人が亡くなりました」低く落ち着いた声音。受話器を持つ手が震え、鼓動が高鳴り、喉が乾き引きつって一瞬声が出ない。最初に何と返答したのか、いまだに思い出せないほどの衝撃だった。明朝、故郷の吉野へ連れ帰り、ご家族と近親者で密葬するとの事を知って、今夜しか彼に会うチャンスがないことに気づいたのは、浅はかにも一度電話を切ってからの事だった。再度電話で今夜これから訪問したい旨を伝え、芦屋のご自宅へ飛んでいったことは三うまでもない。「黄疸が出ていたので、顔色は少し悪いのですが…。」という奥様に案内された部屋には、彼が彼にふさわしく、診療時にいつも着用していた白
衣に身を包み、ネクタイを締めて静かにベッドに横たわっていた。ふっくらとした顔には安堵の表情が漂っているように見えて、「英道、よく来たな!」とでも言いたげに、少し開き気味の口元には笑みさえもが窺えた。
親友の死を目の当たりにして胸が痛み、何と言っていいか分らない。彼の歯科治療を引き受けていた立塲から、もう私の役目は終わったのかと問いかけようとしたら涙が噴出した。親友の死がこれほど応えるとは思わなかった。振り返れば彼とは大坂歯科大学に入学して席を隣にしたときから、およそ50年の長きに渡って親友で居てくれた事に、改めて感謝の念を禁じえない。卒業後はそれぞれ歩んだ道は違ったが、彼が神戸市立中央市民病院の歯科医長として1983年に赴任して来たのをきっかけに、また親しく付き合いが始まった。彼の専門医としてのアドバイスが、町医者としての私の臨床にどれだけ寄与したかわからない。また亡妻が末期の冑がんを発症して入院した時、わざわざ自宅まで来てくれて長時間にわたり相談に乗ってくれたことは、実にありがたかった。

歯科部長となって更に責任が増した彼の身体は、阪神淡路大震災の勃発で益々激務が続いた結果、以前から抱えていた肝炎が増悪した。そのような頃、常に歯科界のことを考えて行動していた彼が、奥様の前でふと洩らした一言「今、死ぬわけにはいかんのや…」主治医に生体肝移植のドナーになることを申し出るきっかけになったと述懐する彼女の話を間いて、眼前に横たわる義弘に「何とお前は幸せな奴だ!こんなに深い愛情に包まれていたんだなぁ」と心の中で語りかけていた。

1999年の薑れに彼から吉野の別宅に誘われた。2000年の日の出を熊野灘で一緒に見ようと言う提案だった。実家を取り壊した跡地に建てた別宅には、取り壊す前に移設したと思われる欄間などの思い出が随所に取り込まれていた。二人で自炊して夕食をとり夜半に出発。熊野灘で2000年の初日の出を拝むことが出来た。思えば二人だけのこんな旅は、学生時代にまだ米軍の施政権下にあった沖縄を、テントを担いで旅行したとき以来だった。思い出の西表島にまた一緒に行こうと誓い合ったのだったが…。生体肝移植手術をこの年の秋に控えて、何か期
すところがあったのか、どうして私を誘ってくれたのか、今となっては答えが返ってこない。それから14年、君は元気に神戸市立中央市民病院の歯科部長を2010年に退官し、兵庫歯科学院專門学校校長を勤めながら、歯科保健衛生業務の発展に寄与し続けて、歯科医師人生をわき目も振らず全力で駆け抜けた。その姿に強く感銘し深く尊敬の念を持つ。親友として長きに渡り付き合ってくれたことにも深く感謝する。と同時に、親友の一人に私を選んでくれたことを誇りに思う。

ありがとう、義弘! 合掌

(當山英道記)

平成28年度 大18 とわ会

平成27年10月17日(土)、第44回とわ会がリーガロイヤルホテルにて開催されました。総会にて近森会長より挨拶、北村幹事より会務報告、矢追幹事より平成26年度収支決算報告があり、記念撮影をいたしました。続いて懇親会に移り、余興として四代目桂塩鯛公演があり、皆で楽しみました。当日は全国同窓会の役員会も同じホテルで開催のため、大阪歯科大学理事長・学長の川添堯彬先生、全国同窓会会長生駒等先生、専務理事恩田信雄先生方は遅れてご着席いただきました。大阪府歯科医師会会長代理として同級生の川野敏樹副会長が来席されました。宴は会員の近況報告など、和やかに過ごしました。本年28年は10月15日(土)、同ホテルにて開催される予定です。

平成28年度 大19 一九会

クラス代表に城村幸治君

一九会同窓会が、平成28年10月15日(土)午後4時から大学付属病院14F プラザフォーティーンで、5年ぶりに約50名が参加して開催された。会は、城村幸治君の開会の辞のあと、会長の塩見聰君の挨拶があり議長に松村隆司君を選出後、平成23年4月1日から平成28年10月15日までに亡くなられた13名の方々に弔慰黙祷を捧げた。
次に報告に入り、会務報告を塩見君が、会計報告を庄司武君が、学内報告を林宏行君からありました。
続いて議事に移り平成23年から27年度収支決算を庄司君の提案説明のあと、村上彰廣君から監査報告があり、可決承認されました。次にクラス代表に関して、塩見君から次期クラス代表に城村君を指名したとの提案があり、全員の拍手をもって決定しました。続いて、次期総会に関しては、本部同窓会が4年後の2020年に100周年を迎える。その時まで待つのかとの提案に対して、同窓の中から古稀を迎え、2年に1回を望む声があり、次回は2年後同窓会を開催することが決まりました。
この後、協議事項に入り、会費についてこれからは、総会のときに費用をもらい、その費用をもって通信費等にあてていくことが承認されました。この後記念写真を撮った後、懇親会に移りました。懇親会では、来賓として川添堯彬理事長・学長の代理の有歯補綴咬合学講座主任教授の田中昌博先生から、来年4月から牧野学舎に「医療保健学部」を開設する。同学部は歯科衛生士養成の口腔保健学科と、歯科技工士養成の口腔工学科であるなど学内報告をかねたあいさつが、同窓会会長生駒等先生、同専務理事の恩田信雄先生から、同窓会設立100周年についてのあいさつがありました。その後、福岡(山崎) 章君の乾杯の音頭ではじまり、卒後45年になり、懐かしく学生時代の思い出や、近況に話が盛り上がり、土曜のタベ和気藹々として過ごしました。古稀を迎え、あらためて「いつの間にこんなに年をとったのか」との思いがされたのではないでしょうか。

(井上泰介記)

平成28年度 大19 一九会

親友宮本哲博君

今年も春の選抜高校野球が終わった。昨年3月母校松山東高校の甲子園出場が決まり、球場まで応援に行くと周
辺の駐車場について何度も電話があった。幸い母校は一回戦突破し、試合後電話をした時歓喜で彼のテンションは最高潮だった。その前年12月初めに電話で、 臓がんや肝臓にも転移がある。「もう、あかんじゃろ」と言っ
てきた。愕然としながらも、そんなことは無い、今の医学を信じろ、と言うのが精一杯だった。その一週間後家内と松山へ彼を訪ねた。一緒に食事、道後温泉に入った。非常に元気で顔色も良く、ふっくらとして今までとなんら変わりはなかった。ただ、抗がん剤を注入するカテーテルが胸にあっただけである。その後、密接に連絡をとりあった。いつ連絡しでも張りのある声で元気のいい返事が返ってきた。本当にこの人は病気なのかと疑うよ
うな状況であった。

甲子園の半月前、互いに夫婦で有馬温泉に一泊した時も全く変わりはなかった。食欲も旺盛で、よく食べた。その時、彼に大丈夫との確信を持った。その確信が後で後悔することとなった。6月になって抗がん剤は止めた。自然に任せると言った。副作用で苦しかったんだろうと思う。漢方に活路を求め東京まで奥様と何度も通った。
それでも電話ではいつもと変わりなく元気だった。9月になってメールした時、「だんだんしんどくなってきた」と返事があった。彼に会いに行きたいと思ったが、絶対大丈夫との確信が強かった。また、そう信じていた。私の心のどこかに彼が弱っていたらどうしようという思いがあったことも事実である。11月3日計報を受けて呆然自失「そんなに早く」いったいどうなったのかと思うばかりだった。まだこの先十分頑張れると思っていたし、彼との時間の制限など考えもしなかった。

それから半年、彼への思いをやっと綴る気になった。宮本君との初対面に記憶はないが、2年生の頃気がついたら彼のそばに私がいた。歯科医師であったお父様を早くに亡くし苦学していた。毎日アルバイトをし、3年の時には親戚の歯科医院で手伝いをし、お母様を少しでも楽にしたいと言っていた。学生時代、春休み、夏休みなど故西村和晃くんと幾度となく松山へ行った。学生時代から大恋愛であった奥様の実家へもよくお世話になった。特に、奥様のお父上と大変気が合い、釣り船をチャーターして頂き、宮本君、西村君、お父上らとの松山沖での楽しかった魚釣りは懐かしい思い出だ。そんな訳で松山へと行くと大歓迎、味をしめていた。

卒業後すぐに開業せざるをえなかった彼には、歯科医師としての色々な試練があったことは想像に難くない。松山市歯科医師会会長、愛媛県歯科医師会副会長、大阪歯科大学同窓会副会長を務めた彼の人望は特筆すべきものがある。彼が逝った翌日松山へ会いに行った時、奥様から9月に車いすで東北旅行へ出かけたことをお聞きした。その頃には歩行も困難になっていたのか、岩手県久慈市ではここの病院で塩見の息子が研修しているんやと言ってましたと奥様がおっしゃられた。自身の人生を理解し、肉体的、精神的苦痛の中で私のことが脳裏にあったのかとの思い、彼との別れ、しばらく連絡がとだえていたことへの「すまない」という気持ちで込み上げるものを禁じ得なかった。私が何度会っても彼の運命を変えることは出来ないが、直接または電話でも千万無量の話が出来ていれば、その時だけでも彼の気持ちが和んだのではないかと後悔する。彼には、三人のご子息がいる。二人は歯科医師として、一人は医師としてそれぞれ社会に貢献している。以前、息子に関しては思い残すことはないと言っていたが、死にゆく人の遺憾千万は語れない。生者必滅、会者定離、愛別離苦を痛切に感じながらの日々親友宮本哲博君の冥福を祈る。

平成28年4月10日

(塩見 聰 記)

平成27年度 大20 二斗会

二斗会総会・三教授定年退職慰労会

平成27年4月4日(土)午後4時から、二斗会クラス会・総会を大阪歯科大学天満橋学舎14階「プラザ14」で、52名の先生方の参加を得て開催しました。前回、本学創立100周年記念同窓会全国大会が平成23年11月26日に開催された後、二斗会卒後40周年クラス会・総会が大阪リーガロイヤルホテル地下2階「セラーバー」で行わ
れて以来、3年半振りとなります。2年ご、とに開く予定が延び延びになっていました。
今年3月31日付で、口腔衛生学講座主任教授の神原正樹君、細菌学講座主任教授の福島久典君、臨床研修教育科科長専任教授の前田照太君のお三方が、めでたく無事に定年退職をお迎えになりました。ほんとうにお疲れさまでした。同級で3人の教授を輩出した学年はあまり聞いたことがありません。我が二斗会の誇りとすることろでありました。

総会は金上喬昭君の司会で始まり、早川文彦君の会長挨拶に続き橘高又八郎君の議長のもと、前回総会以降、物故会員16名もの先生方に慰霊黙祷と捧げた後、会務報告ならびに会計収支報告(平成23年度~平成26年度)を旙中大吉君が行い、会計監査報告を前田照太君が行って、全員異議なしで承認されました。懇親会に先立って記念集合写真を撮影した後、懇親会に移り、金上喬昭君の司会のもと、本会の会長と専務が他の会務があり出席できないということで、無理をお願いして出席いただいた三谷卓名誉会長に来實挨拶をいただきました。乾杯の音頭を抽選で選出した関根秀樹君にいただき、会食に入りました。途中、余興に祝いの詩吟を桃井力生君に披露していただきました。この度、定年退職された元3教授に二斗会から記念品が手渡され、それぞれお三方から感懐を込めたお話をいただきました。会は大いに盛り上がり、楽しいひとときを過ごしました。午後7時頃お開きとなり、次回総会(2年先?)の日程と場所は決まり次第お知らせしますので、多数のご参加をよろしくお願い致します。

(早川文彦記)

クラス会・OB会だより

クラス会だより

OB会だより